第51回 長尾よね(その二)
写真・手紙・効能説明をふんだんに用いた前代未聞の広告で、稼ぎに稼いだ

日本の幼児死亡率は、当時、未開国家同様のありさまで、母親たちは、その健康状態について、悲観しながら、何とか丈夫に生きて欲しいと祈るしかなかった。
大正時代の統計によれば、平均寿命は四十三歳であった。乳幼児死亡率の高さが、平均寿命を押し下げていたのだ。

私鉄専門の工事差配人だった川田亦治郎は、五十を過ぎて、薬品の研究に取り組みだした。
売薬「ベーリン」で、一山当てた経験のある長尾欽彌は、東大農学部の澤村真に食い込み、酵母の実用化に向けて走りだしていた。
そうして、ようやく製品化に目処がついた。
効能には、それなりに自信がある。
けれど、売薬の死命を決するのは、シンボルマークと、ネーミングが、決定的な要因を握っていた。

一年かけて、シンボルと名前を熟考した。
ある時、欽彌が西洋の映画を観にいった。
それはスポーツ大会のフィルムで、筋骨たくましい選手が砲丸を投げる場面があった。「これだ」と思いついて、シンボルマークにした。

砲丸投げの写真を入手した後、その画像の前で額をくっつけながら、さまざまな呼称を検討していった。
そして、最後に残ったのが「若素」だったのである。
ここからの、よねのやり方はあざとかった。
発売元を『栄養と育児の会』としたのである。
企業ではなく、乳幼児と母親のための非営利組織のような印象を抱いた者もいたかもしれない。

一壜当り三百錠で、一円六十銭。
芝大門の寺の庫裏に、事務所を置いた。
女工を雇って、錠剤を詰め、箱に入れる。
ある程度数がまとまると、欽彌は風呂敷に包んで、御徒町の薬問屋に売りにいく。二人の夫と一人の妻の目論見は図に当たった。

しかし、まだ十分に成功したとはいえない。
化粧品を活計としてきた欽彌は、宣伝に金をかける事の大事さを認識していたのである。
当時、発行部数がもっとも大きかった『婦人倶楽部』に六頁にわたる広告をうったのだ。
はじめの三頁は、澤村博士による、「わかもと」の効能の、懇切な解説。
次に、三人の医学士が、「わかもと」の多様な効能を説き、結核やチフス、ニキビ、神経衰弱にもよい、と云う。
さらに芝の工場の探訪記事も掲載されていて、多数の女性が包装にいそしんでいる姿、全国から寄せられた感謝状の山、などの写真が掲載されていた。

こうした、立体的な構成―写真、手紙、効能の説明―で作られた広告は、それまで存在しなかったのである。