読書人の雑誌『本』

『未明の闘争』著:保坂和志
読者の体で鳴らす

というこれは、この小説の出版前に簡易製本して宣伝用に書店やマスコミに配られた本(プルーフという)の帯に担当編集者が書いたコピーだが、私はこれがすごくいいと思う。小説というのは、書いて渡すたびにそれを受け取る編集者は、もっともらしい意味やテーマを返礼として作者に言ってくるものだが、この連載はさいわいなことに「群像」で毎月原稿を受け取った編集者も、「村中鳴海がエロくてムラムラきました。」とか「チャーちゃんの話に半泣きになりました。」みたいな、ものすごい素朴な感想しか言ってこない。

私は「長谷川君、そんな素朴なことばっかり言ってていいのか。」と言ってはいたが、世の中の読者がみんなこの長谷川君のような読み方しかしなかったら、小説はどんなにいいだろう!

思春期というのは凄い。私はまもなく五十七歳になる。作中の「私」ははっきり言って何歳なのかよくわからなくなった。作中のその「私」もここにいるこの私も、自分自身の思春期から力をもらって生きていることを、この小説を書きながら実感した。

最初は、いまの「私」が十七歳の、毎日海にジョンとポチを散歩に連れてゆく「私」に何か語りかけるつもりだったが、思春期の少年が「スゲー!」と感心するようなことを五十歳の男が言えるだろうか。何しろ向こうは一晩に三回オナニーしても平気なのだ。かなうわけがない。十代で作家デビューする人がいるが、十代は小説なんか書かないで、十代としてやることがいっぱいあるそういうことをちゃんとやっててほしい。それは全部ろくなことじゃないがろくなことじゃないから五十過ぎの人生の力となる。

But only love can break your heart.
Yes,only love can break your heart.

これはニール・ヤングの、そのとおりのOnly love can break your heartという歌の歌詞だが、愛に心が揺さぶられるのも、愛に心が揺さぶられる歌に心が揺さぶられるのも、思春期があるからだ。愛のような、歌のような、小説、それを目指したわけじゃないが、そうなっていたらいい。

友達のアキちゃんは、分身や生まれ変わりのことばかり考えている。分身や生まれ変わりはあっても、いま私たちが使っている文章ではそれを捕らえられないだろう。と、これも書いているうちに考えた。「捕らえる」という言葉がすでに、自分と対象という二分法に乗っかった考え方で、それは捕らえるのでなく、並走するとか、掠めるとか、踊るというような感じだろう。

分身・生まれ変わり・永劫回帰・主体の入れ替わり・・・・・・というようなことは、人生の思いもかけないときに起こっていたのかもしれない。起こっていたのに、「起こらない」とか「起こってほしい」という否定的な先入観で生きていたために、それを踊れなかったのかもしれない。

何はともあれ、私はこの小説を連載期間にして三年八ヵ月書きつづけた。ということは、三年八ヵ月はこの小説とともにいて私は飽きなかったそのわけは、今回の書く日々がとりわけ素振りの日々だったからだった。

ヤンキースにいた松井秀喜が昨年末の引退会見で、最も記憶に残ったことは「長嶋監督とした素振りの時間」と言ったその素振りと同じ意味で、この作品は素振りする日々のひと隅にあらわれた外から見える形で、この小説が面白いとしたら作品の向こうに素振りがあるからで、作品より素振りそれ自体が苦しみで楽しみで高揚だった。自然の前で、私は作品を書くより小説を素振りしつづけた。