読書人の雑誌『本』
『黒田官兵衛―作られた軍師像』著:渡邊大門
ハダカの官兵衛

歴史学というのは、少々窮屈な学問である。基本的には信頼できる良質な史料に基づいて、それぞれが課題とするテーマを追究しなくてはならない。自分にとって都合の良い史料を選択して、都合の良いように解釈するなど論外である。私もこれまで多くの一般書を書いてきたが、成功したか失敗したかは別として、少なくともその枠組みは守ってきたつもりである。

しかしながら、今回せっかくこのような場を与えられたので、自由に黒田官兵衛について考えてみたい。また、過去と現代を安易に結びつけて論評するのもタブーであるが、その禁を冒すこともお許しいただきたい。

十五世紀の半ば以降、日本は内乱状態に突入した。いわゆる戦国時代である。この内乱によって、多くの名門守護が没落した。斯波(しば)、畠山、土岐(とき)、赤松、大内、大友などは、近世大名として生き残ることができなかった。代わって台頭したのが、その配下にあった守護代層や有力国人である。

そのなかの代表の一人が織田信長であり、豊臣(羽柴)秀吉であった。周知のとおり、信長は気性が激しく、非常に扱いにくい人間であった。そのもとで辛抱強く仕えたのが秀吉にほかならない。秀吉の痒いところに手が届くような機転は、信長の気に入るところとなった。たとえるなら信長は全国展開するブラック企業の社長であり、秀吉は中途入社した幹部社員ということになろう。

信長をブラック企業の社長にたとえるのは人使いが荒く、いうことを聞かなければ部下を容赦なく斬り捨てていった点に求められる。現代のブラック企業が労働者に長時間労働と低賃金を強いており、文句があれば解雇するのと同じ感じである。配下の者の気苦労を考えると、じつに痛ましい限りである。しかし、信長は新興勢力であるがゆえに、命令に忠実で「使える人材」を常に登用することが必要であったと思う。

ところが、社業の全国展開の途中、信長は志半ばにして本能寺の変に斃(たお)れた。その後継者に名乗りをあげたのが、秀吉であった。親しみやすい性格というイメージのある秀吉であるが、その実情は真逆である。短気で気分家で、ときに人を恫喝してみたり煽(おだ)ててみたりと、扱いにくさでは信長に引けを取らない人物であった。秀吉は、ブラック企業の二代目社長ということになる。

秀吉がブラック社長であるという理由も、じつに簡単である。信長同様、命令に従わない者は徹底的に排除し、使える人材は積極的に登用したからだ。しかし、晩年は忠言する者もなく、「裸の王様」状態になったことは、誠に残念といわざるをえない。

 
◆内容紹介
類稀なる交渉術を駆使し、中国計略から北条氏討伐の小田原合戦に至るまで豊臣秀吉の天下統一の大事業を扶けた稀代の智将。「備中高松城水攻め」「中国大返し」の真実とは?本当に天下獲りを目指したのか?信頼できる史料のみをもとに、その出自から「名軍師」「二流の人」などに至るまで後世に創作された様々な俗説を徹底検証し、巷間に流布された従来の軍師像を超えて、自らの才覚のみで道を切り開いた新しいタイプの武将として新たな黒田官兵衛像を描く。