第49回 クルップ(その三)戦争は儲かる―軍拡の先頭に立ち、「戦犯」として逮捕されるまで

クルップ財閥の始祖である、アルフレート・クルップは、七十五歳で死去した。
七人の職人を従え、十四歳から鉄鋼業の最先端で活躍してきたアルフレートは、ヨーロッパ最大の重工業会社の始祖として、その人生をしめくくったのである。

アルフレートは、自分の葬礼のプログラムをあらかじめ遺言とともに作っていた。
死後三日目の夕方に葬儀を行う。
遺骸は「丘の別荘」から松明行列を供にしてエッセンの工場に移し、工場発祥の地に一旦、安置した後に、墓地に運ぶ。
皇帝の名代、帝国を支える文武の官僚たち、会社の経営陣、二万人の労働者らが葬列に従った。

一人息子のフリードリヒが、跡を継いだ。
フリードリヒは、虚弱体質で線は細かったが、経営者としては非凡な才能をもっていた。

彼は一八九〇年、すでに装甲板の研究に着手していたのである。
敵の装備よりも堅牢な装甲を施していれば、最終的に勝利を得ることができる。
火砲の大口径化、射程距離の長大化は、時代の趨勢であったが、その、肝心の火砲を守ることが出来るのは、装甲に他ならない。

もちろん、長期にわたる陣地戦になると―たとえば旅順のような―砲自体を陣地化しなければならないが、当時のヨーロッパでは、クリミア戦争位しか、その戦訓はなく、特に欧州では、機動的な師団運用が、正当とされていたのである。

普仏戦争は、ある意味でクルップの戦争と呼ぶべきだろう。
細かく分割されていたドイツ諸邦を糾合し、プロイセンのホーエンツォレルン家をその盟主として、ドイツ帝国を建設したのである。

ナポレオン三世を撃ち砕き、プロイセンをドイツ帝国に再編したウィルヘルム一世は、一八八八年に逝去し、好戦的なウィルヘルム二世が即位した。
フリードリヒは、対英戦争を目論んでいた二世皇帝の意思に従い、海軍建設に協力した。

フランスからの賠償金を原資とし、さらに軍備は増進された。戦争は儲かる、というのがこの時期の、ドイツ国民―皇帝から庶民まで―の実感だったろう。

そうして、軍拡の先頭に立ったのが、クルップ社だったのである。

フリードリヒは、四十八歳で没した。
未亡人のマルガレーテが、後継者となった長女ベルタの代行をしたが、その事業手腕は、夫よりも優れているほどだった。マルガレーテは、クルップ商会を株式会社化し、フリードリヒ・クルップ社を発足させた。

最大株主は、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世だった。
一九〇六年、ベルタと結婚したグスタフ・クルップがUボートの建造にのり出した時には、皇帝は百万ドル相当の助成金を与えたという。