読書人の雑誌『本』

『戦国大名の「外交」』著:丸島和洋
歴史研究者と戦国大名の距離感

冷静に、冷静にとはいっても、やはり新出史料を見つけると気分は高揚する。そこで見出した甲斐国住人の過去帳を読み進めていくと、実父信玄に対するクーデターに失敗した武田義信の傅役(もりやく)で、責任をとって処刑(または自害)された飯富虎昌(おぶとらまさ)の命日が見つかった。永禄八(一五六五)年一〇月一五日―長年不明だった「義信事件」の発生日をほぼ確定させた瞬間である。

さて、そうなると永禄一〇年一〇月一九日という武田義信の命日が気になる。義信の死因は、病死とも自害とも伝えられる。もし自害であるならば、飯富虎昌の三回忌と数日ずれるだけである。義信は、傅役の後を追うように自害したのかもしれない。そんな風に思いを馳せることがある。

もうひとつ、平成二〇(二〇〇八)年に武田信玄の「軍師」として著名な「山本勘助」(『甲陽軍鑑』による、正しくは「菅助」)の家伝文書(かでんもんじょ)発見の知らせを受けた時の衝撃も忘れられない。

我々研究者は、「山本勘助」と聞くとどうしても身構える。関係文書が一点あるだけで、その他はすべて偽文書(ぎもんじょ)、という先入観があるからだ。しかし山梨県立博物館の学芸員を中心とした調査チームに加えてもらい、古文書の現物を見た時にアッと思った。日頃見慣れた武田家の右筆(ゆうひつ)が書いた文書に混ざって、信玄の自筆書状が含まれていた。紙も当時のもので間違いない。架空の人物説を払拭できずにいた「山本勘助」の実在が確実なものとなった瞬間である。「軍師」というのは江戸時代の創作(おそらくは近松門左衛門による)だが、「勘助」(菅助)はたしかに信玄の家臣として存在していたのである。

武田氏の出した文書には、ひとつ特徴がある。それは行政書類のような性格が強く、あまり信玄・勝頼の個性が表れないという点である。どうもこの親子は生真面目な性格であったらしく、文書に余計なことは書かない。これは、書状を読むと膨大な愚痴に付き合わされる毛利元就や、「馬鹿者」という言葉をときおり使い、家臣からも「せかされるのがお嫌い」(つまり短気)と評された上杉謙信、外交文書にまで剝き出しの生の感情を書き記す織田信長などとの大きな違いである。

もっとも、いくつか信玄の性格を探る手がかりはある。まず自筆書状に注目したい。信玄は、素人目に見ても達筆である。毛利元就や織田信長の自筆書状と比べると、その差は歴然としている。ただ、文字が非常に細い。筆先だけを用いて字を書く癖があったらしく、これは達筆の証拠であるという。しかしそのため、墨がすぐ尽きてしまう。

ところが、信玄はなかなか墨を継ぎ足さない。文字がかすれて読めるか読めないか、ぎりぎりまで書いて、それでようやく墨継ぎをする。こういうところを見て、筆者は信玄を良くいえば「几帳面で無駄がない」、悪くいえば「けちくさい」性格と思っている。