第45回 石橋正二郎(その二) 陸軍も海軍もタイヤを欲した―石橋と鳩山を結んだ大戦の「緊迫」とは

ブリヂストンの業績は、四、五年は停滞したが、三井物産が輸出に協力してくれるようになってから、だんだん好転していった。
その後、軍需が盛んになり、支那事変が拡大すると、軍はブリヂストンを全面的に利用した。

ブリヂストンが、いちじるしい成長を見せるようになると、グッドイヤーと並ぶタイヤの大メーカーであるファイアストンから、商標侵害の訴訟を起こされた。
当時、外務省で通商局長の任にあった来栖三郎が、大変心配してくれて、結局、日本の裁判では勝訴になった。

昭和十二年、昭和飛行機に関係した。
同郷の伊藤久米三という工学博士に頼まれての事だったという。伊藤は三菱の技師だったが、航空機会社を設立しようとしていた。航空機は、日本にとって、最も有望な産業だというのである。

ところがアメリカから輸入した工作機械の代金、六十数万円が支払えなくなった。
伊藤は、三井鉱山の牧田環に泣きついて、何とか会社が設立された。
だが、かんじんの海軍省が消極的だった。
大角岑生大将は石橋に対して、「君、それはちょっとやり過ぎだよ、なま優しい事では、出来ないよ」と、忠告してくれる始末だった。

昭和十三年頃から、空気ががらりと変わった。結局の処、海軍からも、陸軍からも飛行機のタイヤの需要は増加の一途を辿った。

戦争が酣になると、三井から相談を受けた。
三菱は軍需生産に協力的だが、三井は手を拱いているばかりではないか、と軍ににらまれたという。
三井は、昭和飛行機を傘下に置くことで、軍の歓心を買うことにした。
石橋からすれば、ようやく軌道にのってきた事業を手放す事になったのであるから、いい面の皮、という事になるだろう。

昭和八年、石橋は麻布永坂に屋敷を構えた。
当初、きちんとした普請ではなかったので、数度にわたって手を入れ、鉄筋建築とし、防災設備も整えた。

昭和二十年の東京大空襲では、隣人だった三井守之助の七百坪の大邸宅が全焼した。大蔵大臣を務めた、池田成彬の屋敷も焼かれた。
永坂町には百九十戸の屋敷があったが、六戸だけが残った。残った六戸のうち、三戸が石橋の持ち家だった。