ブルーバックス
『エピゲノムと生命』
DNAだけでない「遺伝」のしくみ
太田邦史=著

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まったく同じDNAから
眼や心臓など異なった細胞ができるのはなぜか?
生命のしなやかさと多元性を生み出す「DNAの偽装」

 エピゲノムは、同じDNAの配列を用いて柔軟で多様な表現型を生み出すしくみだ。生物はエピゲノムを獲得することで、環境にしなやかに適応する力、複雑な体を作る能力、記憶や認知能力を得た。エピゲノムの世代を超えた影響や、病気との関係も明らかになってきた。遺伝の概念を覆す生命科学の最前線。


まえがき

「桜の唐の綺(き)の御直衣(おのうし)、葡萄染(えびぞめ)の下襲(したがさね)、裾いと長く引きて、皆人はうへの衣なるに、あざれたる大君(おおきみ)姿のなまめきたるにて、いつかれ入り給へる御さま、げにいと異なり。花の匂ひもけおされて、なかなかことざましになむ」(『源氏物語』・花宴巻)

 源氏物語には、随所に当時の宮廷衣装の記述が出てきますが、その場の雰囲気を臨場感良く伝える道具として利用されています。光源氏の服装は、文脈上重要な意味を持ちます。冒頭の引用箇所では、青年期の光源氏が右大臣家で開催された「藤の花宴」に遅れて到着した際の、光源氏の服装のようすが描かれています。

 光源氏は桐壺帝(きりつぼのみかど)と桐壺更衣(きりつぼのこうい)の第二皇子(大君)で、天皇にはなれません。しかし、持って生まれた高貴さと美しさで、多くの女性を引きつけます。なお、右大臣家は、光源氏を嫌っている桐壺帝の現在の妃「弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご)」が出た家柄で、光源氏にとっては政敵です。政敵の家で開かれたパーティーに、遅れて光源氏が到着したという場面です。

 政治的実権を握る人物の家で行われたパーティーですので、多くの参加者は「うへの衣」、つまり位袍(黒などの単色の服)という正装をしています。もちろん、皆時間通り到着しています。一方、光源氏は、「唐の綺の御直衣」という舶来の貴重な絹織物の略装で、遅刻してきたのです。加えて、表地が薄地の白で、裏地の赤が薄ピンクに透けて見えるという、他の「黒一色の礼服」と明らかに異なる優美な装いです。

 政敵の宴席に、目立つ格好で意図的に遅れて入場するというのは、大君としてのプライドと、「右大臣家に迎合しない」という光源氏の意思を表現しているわけです。現代の我々にはわかりにくいですが、当時の人々がこれを読むと、実にハラハラする場面なのでしょう。細かい服装の様子で複雑な人間関係を表現するなど、一〇〇〇年も前の小説としては、高度な技法を駆使していると思いませんか。

中身は同じでも、着ているもので新しい意味が生じる

「花宴巻」のように、「何を着ているか」「どういう特徴の服装か」によって、その人の状況や境遇がある程度判別できるものです。たとえば、お葬式には黒のネクタイや喪服を着ていくことが常識ですし、逆に結婚式で喪服を着ていけば常識が疑われます。高級なレストランや、パーティーによっては「ドレスコード」というものがあり、しかるべき服装をすることが求められます。