第44回 石橋正二郎(その一)
足袋を売りに売った。ゴム靴を経てクルマの履物へ―ブリヂストン創業譚

明治二十二(一八八九)年二月二十五日、石橋正二郎は久留米に生まれた。丁度、博多から久留米まで鉄道が開通した年であった。

子供時代は体が弱く、暴れたり、悪戯をしたりはしなかった。卒業時の席次は、首席だったという。

明治三十五年、久留米商業学校に入学した。石井光次郎―警視庁警部、台湾総督府勤務から朝日新聞取締役、衆議院議員―と同じ年の生まれだが、正二郎が早生まれの上に一年飛び級したので、石井は二年の後輩になっている。

卒業した後、神戸高商を志望した。
商業学校の校長が、進学をすすめてくれたのである。
しかし、両親は首をたてに振らなかった。
兄と共に、家業の仕立屋を手伝え、というのである。
仕立屋といっても、着物や背広を扱うのではない。
シャツや股引、足袋などを作り、陳列して売りさばく、というやり方だった。

当時、弟子が七、八人いたという。
二百人、三百人の職人を使っている同業者との競争は、苛烈だった。
兄が兵隊にとられ、店の経営は、正二郎が担う事になった。

正二郎は考えた。
多くの製品を並べるのは、効率が悪い。
一番、売れる足袋に特化する事にした。
足袋の値段は、均一にした。

当時、足袋は九文なら二十七銭、九文三分は二十八銭五厘、九文半なら二十九銭、十文は三十銭と、小刻みに値付けされていたが、面倒なので一律二十銭にした。
二十銭という値付けは、当時の市価より二割安かったという。
儲けるためには、沢山売らなければならない。
均一価格をはじめるに際して、工場を作り、百人の工員をやとった。

均一足袋は、売れに売れた。
注文は、三倍、五倍と一足とびに増えていった。
大正三年、第一次世界大戦がはじまると、経済恐慌が日本にも襲ってきた。

不景気になると、物が売れない。その間隙をついて、正二郎は原料を一年分、先物で手配した。大正五年に景気がもちなおすと、物価はみるみるうちに上がり、純益が三十万円に達したという。