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山中伸弥、巨人・越智、大場久美子・・・どん底、虐待、難病。乗り越えたからこそ「今」がある
苦難こそ、人を作る「感動の読み物」第1回

 挫折を知らずとも、上辺の成功は得られるかもしれない。だが、人々に愛され尊敬される人、確かな信念を持つ人は、必ず苦難の味を知っているものだ。各界の有名人たちが明かす、彼らの原点とは。

山中伸弥 京都大学iPS細胞研究所所長
ノーベル賞学者が患者に謝った日々

「山中君と飲んでいたとき、僕が『喉におできができてんねん。治してくれ』と頼んだんです。すると『ああ、これは切除手術をせなあかん』と彼が言うので、『お前、手術できるんか?』と聞いたら『できるで』と。それで山中君に手術を任せることにしたんです」

 若き日の思い出を語るのは、大阪で鉄鋼商社社長を務める平田修一だ。平田は、iPS細胞の開発で昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥・京都大学教授(50歳)の親友である。当時2人は25歳、山中は整形外科の研修医だった。

「おできはアテローム(粉瘤)というもので良性でしたが、実は山中君にとってこれが初めての手術でした。

 局部麻酔で、手術中も意識はありました。すると彼が『すまん』と謝る声が聞こえるんです。思わず『大丈夫か、頼むで』と言ったのを覚えています」(平田)

 山中自身は、手術のことをこう振り返っている。

「うまい人なら20分で終わるところ、2時間かかりました。指導医や看護師の方々に呆れられましたが、いちばん呆れていたのは患者さん本人でした。幸いその患者さんは僕の中学時代からの親友だったので、訴えられずに済みました。

 指導医に、僕は山中という本名を呼んでもらえませんでした。『お前はほんまに邪魔や。ジャマナカや』と言われ続けました」

 整形外科医にとって、手術が苦手というのは致命的な弱点だ。今でこそ山中は「ジャマナカ」と屈託なく話すが、当時は無力感に悩み、「俺は医師に向いていないのか」と思い詰めた。

 しかしこのことが、臨床医から研究者に方向転換するきっかけになったと本人は言う。

「あまりかっこいい話ではないですが、僕は整形外科医から逃げ出すような形で研究者になった」

 山中は挫折の中で、のちのノーベル賞へ第一歩を踏み出したのである。

 2度目の試練に襲われたのは、研究者となり、アメリカ留学から大阪市立大学に戻った'97年頃のことだ。当時まだ幹細胞の研究は始まったばかりで、その将来性を疑う声も多かった。