「名将」と呼ばれた男たち連続インタビュー 高校野球は監督で決まる
浦和学院、常総学院、光星学院、高知高校ほか

ノンフィクションライター:中村計

 高校野球の監督は正解のない孤独な仕事だ。高校球児を率いて、一発勝負のトーナメントを勝ち抜いた者だけが評価される世界。そんな世界で結果を出し続ける5人の「名将」たちが、胸中を語った。

甲子園の怖さを知った

 一気か。それとも一歩一歩か。優勝する方法は二つに一つだと思った。

「僕の場合、遅すぎるかもしれないけど(笑)」

 この春の選抜大会、監督生活22年目にして初めて全国制覇を遂げた浦和学院の監督、森士はそう語る。

 森が監督に就任したのは'91年8月、27歳のときだ。翌年春の選抜大会に出場し、最年少監督ながら全国四強入り。しかし「あれはまぐれ」と振り返る。

「星稜の3年生に松井(秀喜)がいたときなんですけど練習を見て度肝を抜かれた。あの星稜がベスト8でなんでうちがベスト4なんだろう、って。これが甲子園の怖さだと思った」

 2年後は、夏の甲子園に導き、2回戦敗退。最初の勝負の年は就任5年目、'96年だった。3学年合わせると、三浦貴(元巨人)や石井義人(巨人)ら、のちにプロに進んだ選手が5人もいた。しかし春夏と連続出場したが、計1勝しか挙げられなかった。

「あのあたりから壁を経験し、怖さを覚えていった」

 その年の春、鹿児島実業の名監督、久保克之が監督生活30年目にして県勢初となる日本一に輝いた。その姿と自分が重なった。

「怖さを知らずに勝つか、年輪を重ねつつ、怖さを乗り越えて勝つか。僕は後者だと思った。最初の5年間で勢いだけで勝つ時期はもう逃したと思った」

 無冠の帝王—。浦学はそう呼ばれ続けてきた。

 森は甲子園出場を3年間、空けたことはない。つまり浦学に入学すれば一度は甲子園を経験できる。さらに言えば、年三度の県大会で優勝できなかった年は、わずか三度。毎年選手が入れ替わる高校野球において驚異的な安定感である。

 だが予測したように甲子園ではなかなか結果がともなわなかった。

 勝っても8強どまり。'05年から'11年までは5大会連続初戦負けを喫した。

「石橋クンなんです」と森は自嘲する。「石橋を叩かないと渡れない。自分の不安を取り除けないから、それが選手にもうつっていた」