第40回 五島慶太(その三)
稼いだカネは「映画」に投入---時代劇によって東映を復活させた

 公職追放が解除された後、五島が最初に取り組んだのは映画だった。
 戦時中、娯楽に飢えていた国民大衆にとって映画は福音といってもいい位の魅力があったのだ。

 戦前から、五島は映画館をもっていた。
 渋谷、宮益坂のニュース映画館を手始めに、五反田の工場跡地に劇場をたてるなど、都内に六つほど映画館をもっていたが、いずれも小規模なもので、すべて空襲で焼かれてしまった。

 戦後すぐ、昭和二十一年一月、五島は東横百貨店の三階、四階に、映画館と小劇場を六つオープンさせたのである。客はひっきりなしに訪れ、連日満員という盛況だった。

「他人がつくった物を上映しているだけではつまらない」
 いかにも五島らしい、発想だった。

 映画制作に乗り出すにあたって、五島は得意の手を使った。日活と松竹がもっていた大映の株を取得したのである。

「ラッパ」と呼ばれていた、業界の名物男、永田雅一も、五島の軍門に降るしかなかった。

 ・太秦の大映第二撮影所を東急グループの東横映画に貸し出す。
 ・東横映画は毎月一本の映画を制作し、大映の配給ルートにのせる。
 ・大映は、一六ミリフィルムの地方興行権を東横映画に付与する。

 五島は、短期間に撮影所、配給ルート、興行権を握ったのである。
 しかし興行は、五島の合理主義が通用する世界ではなかった。
 片岡千恵蔵の出演作は、かなりヒットしたにもかかわらず、配給価格を抑えられて大きな赤字をのこす始末だった。

 東映は、半年もしないうちに行きづまった。

 負債総額は十一億にのぼった。入場税は滞納され、給与は遅配、さらには街の金融機関から八千万円借り入れていた。
 不渡り寸前の手形が百二十三枚。一枚が不渡りになれば、即座に倒産という状況。