第39回 五島慶太(その二)
鉄道会社を合併、「電鉄王国」を築く。その手腕が買われ東條内閣---

 昭和十四年の目蒲電鉄、東横電鉄の合併を手はじめに、五島慶太はつぎつぎと鉄道会社の合併を進めていった。

 十四年十月、一般株主への報告として、合併が極めて合理的なものであるという趣旨の報告書を提出している。

支那事変が第三段階の南支にまで進展するに及びまして、金融、経済その他国内百般の制度に対する統制は一段と強化せられて参りました。(中略)しかしながら、両社はよく時艱に耐えて、目黒蒲田電鉄は一割の配当を継続し、東京横浜電鉄は一分増の九分配当をなし得る好成績を収めることが出来ましたのは、まことに御同慶に堪えざるところであります」(羽間乙彦『五島慶太』)

 厳しい統制が敷かれていた、この時代に、一割の配当が出来たのは、やはり五島の経営手腕の冴えによるものと、云わざるをえまい。

 五島は、その後も鉄道経営を拡大していった。
 昭和十六年九月に小田急の社長になり、同年十一月には京浜鉄道の社長、十九年五月に京王電軌の社長になっている。

 京王電軌は、最後まで合併に反対した。
 社長である井上篤太郎が、頑強に抵抗したのである。
 代々木八幡の井上の屋敷に、当時常務だった大川博は日参し、ついに合併を承諾させた。

 当時、五島は運輸通信大臣だったが、わざわざ井上を訪れて、礼を述べたという。
 内務官僚の唐沢俊樹の「回想」によれば、五島は、かく語ったという。

 イギリスでは、とっくの昔にロンドンの私鉄を三社に統合してしまった。東京もそうしようというので、交通事業調整法という法律を設けて、東京郊外の私鉄を三社に整理する方針をたてた。五島は自分の領分を整理したけれど、残った二方面を担当した社は、一向にやらないのだ・・・・・・。

 たしかに東急の存在感は、当時、抜きんでており、同業他社に嫉視されるのも無理はない有様であった。そして、その隆盛を誇り、はばかることがなかった。

『大東急』は、バス、百貨店、田園都市などの事業を兼営する膨大な電鉄会社であったが、そればかりでなく、この間においては静岡鉄道、江ノ島電鉄、神中鉄道、相模鉄道、箱根登山鉄道、バス、トラック、タクシー等数多くの会社を設立し、あるいは買収し、傍系会社又は子会社などその数は八十数社に及んで、さながら『一大電鉄王国』東急コンツェルンを形成しておったのである」(五島慶太『七十年の人生』)