第38回 五島慶太(その一) 企業を次々と買収。「強盗慶太」の異名をとった東の鉄道王とは---

 財界人、政治家で仇名をつけられるようになれば、本物で通るらしい。
 高橋是清の「ダルマ」などは、その温容も含めて至極めでたいものだけれど、なかには強烈というより不吉な響きを含んでいるものもある。

 本稿でとりあげる五島慶太などは、「強盗慶太」という禍々しい仇名を背負っている。
 もっとも西武の堤康次郎は「ピストル堤」と呼ばれている。「強盗慶太」は、ゴロ合わせで洒落ているとも云えるけれど、「ピストル堤」は恐いだけ、と云い得るかもしれない。

 五島は、明治十五年四月十八日、信州上田から十キロほど離れた長野県小県郡青木村の、小林菊右衛門の次男として生まれた。
 兄はおとなしかったが、自分は乱暴者だった、と慶太は回想している(『私の履歴書』)。

 青木村の小学校から、上田中学に通った。毎日、三里の道のりを歩き、一日も休まず通学したという。

 なんとか中学は出たけれど、上級学校へ入りたいという希望は止む事がなく、小学校の代用教員をしながら、学費を貯めた。
 当時、東京で学生として暮すには、月二十円も出せばよかったが、その二十円が慶太には作れなかったのである。

 東京の高等師範学校に生徒の募集があり、何とか合格した。
 師範学校の校長は、嘉納治五郎。講話は、いつも「なあに、このくらいのこと」と腹をきめる「なあに」精神一本槍だった。

 卒業して、四日市の市立商業学校に、英語の教員として赴任した。
 土地柄なのか、学校は校長を筆頭に教員から事務員まで覇気がなく、到底、ともに仕事をする気になれない。

 次の年の四月、慶太は商業学校を辞め、東大法学部本科に入学した。
 入学はしたものの、たちまち学費の支払いが出来なくなり、仕方なく嘉納の門を叩いた。

「なあに」精神の先生ならなんとかしてくれるだろう、と思ったのである。

 嘉納は、民法学者の富井政章男爵の子息の家庭教師の仕事を斡旋してくれた。
 子息はめでたく第二高等学校に合格し、慶太は加藤高明を紹介してもらい、高明の息子、厚太郎の住み込みの家庭教師になった。

 加藤家は待遇がよく、慶太は小遣いを貰い、浅草十二階下で、女郎を買った。
「書生の分際ながら、これだけはどうしようもなかった」と、五島は述懐している。