株価上昇も実体経済が改善する担保なし。マルクス経済学をベースにおけば、アベノミクスは株価至上主義に囚われていることがわかる

佐藤優直伝「インテリジェンスの教室」vol015 質疑応答より
【佐藤優直伝「インテリジェンスの教室」Vol.015 目次】

―第1部― インテリジェンスレポート
 ■分析メモ No.34「プーチン露大統領の離婚」
 ■分析メモ No.35「プリホチコ露官房長官の就任」
―第2部― 読書ノート
 ■読書ノート No.41『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』
 ■読書ノート No.42『脳力のレッスン 特別篇 アベノミクスの本質と日本のイスラエル化』
 ■読書ノート No.43『オリバーストーンが語るもう一つのアメリカ史3 帝国の緩やかな黄昏』
―第3部― 質疑応答
―第4部― 文化放送「くにまるジャパン」発言録
―第5部― 佐藤さんの今後の予定(7月下旬まで)

【質問】 産業革命以後、生産現場のイノベーションが急速に進み、次いで金融工学を駆使した操作で、未来までを担保に経済が肥大化しているのが現代であろうと理解しています。その肥大の多くは実物の裏付けがない先進国の国債という名の借金であれば、次の三点から早晩必ず行き詰まるのが自明であるように思うのですが、どこかに考え違いがあるでしょうか。

 (1)日本を見ても人間の欲望が物質的に無限であるという前提は成り立たないのではないか。物質に飽きるという事があれば、笛吹けど民は踊らず、生産やサービスは縮小を余儀なくされ、未来を担保にしていた金融もまた破綻を余儀なくされるのではないか。

 (2)イノベーションのもたらす経済的インパクトは、今後100年が過去100年ほど大きいものにはならないだろうし、徐々に逓減してくることは、上述(1)の傾向と相まって不可避のように思われる。

 (3)そもそもイノベーションの多くは、生産やサービスから人手を奪う省力化の方向に進むのであるから、それを享受する人口は提供に従事する人口よりも多くなる方向に進む。世界人口が増える中で生産やサービスに従事する必要のない「持たざる純粋消費層」の社会的位置付けができないのではないか。

言ってみれば為替も株も、「胴元がすでに破産しているのはわかっているが、すでにお金を賭けているし、止めても他にする事がないから、とりあえず、それは言わないことにして続けようよ。」という各国の合意の中で成り立っているようなものではないですか。
独占資本主義もここに極まりつつあるという事とは違うのでしょうか。

【佐藤優さんからの回答】 主流派経済学(近代経済学)の枠組みで考えても、事柄の本質を捉えることができないと思います。私は、学生時代の1980年代前半、外交官試験に合格するために近代経済学を勉強しました。当時、教科書はケインズ主義を基調にする新古典派総合の立場から書かれていましたが、徐々にマネタリズムやサプライサイド・エコノミックスが入ってきていた。それだから、教科書に書かれていない部分の知識については、経済誌や学会誌で補強しました。

 私は、マルクス経済学については、1回生のときから大学の講義を聴くともに、勉強会をつくって、一生懸命に勉強しました。著名なマルクス経済学者が京都で講演するときも極力、足を運ぶようにしました。その結果、マルクス経済学(特に宇野弘蔵氏の「科学としての経済学」の立場を取る経済学)から強い影響を受け、今日に至っています。

 マルクス経済学の立場からすると、近代経済学は一種の宗教(イデオロギー)です。「マネー」、「期待」、「株式」などの内在的論理を詰めないで、現象だけを見て、大騒ぎをしているというのが近代経済学の特徴です。アベノミクスが経済の改善を株価上昇で見ているという一点をとってみても、マルクス経済学からすれば、滑稽な宗教なのです。

(略)

 アベノミクスについて、例えば、『朝日新聞』は、4月5日朝刊の社説で<実際、昨年末の内閣発足前後から円安が一気に進み、株価はほぼ一本調子に2千円以上も上がった。朝日新聞の世論調査で60%を超える高支持率を維持しているのも、経済に明るい兆しが出てきた反映だろう。/(中略)アベノミクスを「バブル」に終わらせないためには、成長戦略づくりを急ぎ、実体経済を軌道に乗せなければならない。>と指摘しました。

 マルクス経済学の視座からすれば、この社説の論理は株価至上主義の罠にとらえられています。実体経済が改善すれば株価は上昇するが株価が上昇しても実体経済が改善する担保はどこにもありません。大胆な金融緩和によってマネーサプライを飛躍的に増加しても、産業構造が変わらない限り、国外に流出するか、国内では株と土地という「擬制資本」のみが投資の対象となるというのが、『資本論』を敷衍することによって導き出せる結論です。アベノミクスの内在的論理をつかむためには、『資本論』をもう一度ひもとく必要がある私は考えています。