脱グローバル論 日本の未来のつくりかた
第1回 グローバル社会VS. 国民国家のゆくえ その2

内田樹 中島岳志 平松邦夫 イケダハヤト 小田嶋隆 高木新平 平川克美

生身の人間は〝引き裂かれている状態〟に

内田 お三方がそれぞれご自由にご発言なさって、僕は立場上、ある程度、1つの枠組みの中に収めるような話をしなければならないんですけども……(笑)。

「ポストグローバル社会」というのは僕の希望的、主観的な願望でありまして、もちろんまだ「ポスト」にはなっていないわけです。ただ、僕たちがすでにグローバル化社会の末期にいることは間違いないと思います。何が「末期」かというと、経済がグローバル化する一方で、政治単位としての国民国家はまだ残存しているということです。

 国民国家という統治システムと、グローバル経済というのは本質的に矛盾している。多少は矛盾しない部分もあるんですけれども、本質的なところではすでに利益相反を起こしている。

 世界が急速にフラット化していったのは、たぶんこの20~30年のことです。国民国家というシステムそのものはウエストファリア条約(1648年)に発祥している。そろそろ400年経過している。まあ、かなり惰性の強いシステムではありますけれど、賞味期限が切れかけているとも言える。

 今、僕たち生身の人間はいわば引き裂かれている状態にあります。片一方の足を国民国家にかけて、もう一方をグローバル経済にかけて、股割き状態になっている。気持ちが悪いからどっちかに片付けてくれというわけにはゆかない。引き裂かれてあることを、現代日本のデフォルト(初期設定)として受け入れていくしかない。

『脱グローバル論』
著者=内田樹 中島岳志 平松邦夫 ほか
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 さっき平川君が「解決法はありません」と言いましたけども、僕もそう思います。きれいなソリューションはありえない。向こう30年、40年、場合によっては100年スパンで、着地点がないまま、ずっと引き裂かれ続けていくことになると思うんです。ですから、自分たちが引き裂かれているということ、それをデフォルトとして受け入れるなら、そこに立つ瀬がある。その困難な状況そのものを自然環境として受け入れ、それに適応しつつ、それなりに気分よく生きる方法を探る。そういうことならできそうな気がします。

 グローバル経済と国民国家という統治システムの矛盾がはっきり前景化したのは、2011年の暮れにトヨタ自動車の社長のインタビューを読んだ時でした。

 もともとトヨタって、豊田佐吉さんが織物の機械から始めた日本の地場の産業ですけれど、それが世界的な自動車メーカーになった。日本で育った企業ですから、故郷に対して義理がある。「ご恩返ししなきゃ」という気分がある。あるいは世界的な成功を収めたのだから「故郷に錦を飾りたい」という気分がある。そういう気分があるから企業は収益を上げたら、それを地元に環流するということを一生懸命やってきたわけです。地元に学校を建てる。図書館や美術館を作る。橋や道路を作る。そういう「トリクルダウン」をしてきた。地元に雇用も創出してきたし、地域経済の振興にも寄与してきた。久しく企業活動の成功はそのまま地元の繁栄に結びついていたわけです。ところが、もうそれが不可能になった。