脱グローバル論 日本の未来のつくりかた
第1回 グローバル社会VS. 国民国家のゆくえ その1

内田樹 中島岳志 平松邦夫 イケダハヤト 小田嶋隆 高木新平 平川克美

 あるいは、私が非常に尊敬している日本人に親鸞という仏教者がいますが、この人もそうです。やはり大衆とともに歩み、共同性というものを重要視した仏教者ですけれども、しかしその親鸞も、(親鸞に師事した)唯円の書いた『歎異抄』の中では「親鸞一人」と言っているんですね。独りである人間、つまり単独性と、共同性というものは相互補完的な関係にあるんだろうと思います。

 新しい共同性や社会・コミュニティの形をどう考え、作っていくか。それが今後の非常に重要なモデルになると私は思っています。そして、そのためには、かつての日本社会が、今どういうふうに変容したのかをしっかり把握しておく必要があります。

 かつての戦後日本社会というのは、日本型の雇用システム、そして日本型の社会保障システムでやってきました。一家の中で働くのは、基本的にはお父ちゃんだったわけですね。お父ちゃんが働き、お母ちゃんと子供はその扶養に入るというシステムでした。ですから私も学生時代に親父から言われたのは、バイトで年間だいたい100万円を超えた金額を稼ぐなということでした。ある上限を超えた収入があると扶養から外れるから、あんまりバイトで稼ぎすぎるなよ、と。母もパート労働をしていたので、同じような縛りがありました。一家というのは、基本的にお父ちゃんの雇用によって支えられる。で、お父ちゃんが定年退職すると、今度は年金とか、さまざまな社会保障にカバーされていくわけです。つまり、日本型の雇用と社会保障というのは一体型のシステムとしてあり、それが日本型の社会を作っていました。お父ちゃんが現役の時代には会社に背負ってもらう。その後は国家が面倒を見る、という。

 そして、お父ちゃんにはさまざまなところで社会的な再配分がなされるわけですけれども、その仕組みは必ずしも公正な制度ではなくて、非常に不透明な公共事業であるとか、護送船団的な仕組みによって行われてきた面もあります。しかし、その分、お父ちゃんが特定のコミュニティや業界団体にしっかりと根を下ろし、その社会の中に組み込まれていれば、何らかのおこぼれがずっと回ってくる。それによって再配分がなされ、みんなが生きていける。そんな形で日本型の社会はやってきました。

 しかし、これが大きく崩壊してきたのが90年代でした。雇用が流動化し─いろんな形で意図的に潰していった面もありますが─日本型の経営というものが崩壊し、そして、社会保障システムも潰れていきました。非正規の労働者が大量に出現し、これまでの日本型のシステムではカバーできないような問題を抱えた領域がたくさん生まれてきました。この領域をどう埋めていくか、どうやって制度やシステムを再整備していくのかが、これからおそらく非常に重要な課題になってくるだろうと私は思っています。そうした時に、まだ競争社会、あるいはグローバル化に適応する社会という方向でやっていくのか、それとも、行政と社会が手を結び、一体となって、何らかの受け皿を作っていくような社会を目指すのか。つまり、新しいコミュニティのあり方を模索し、みんなに居場所や出番のある社会(トポスのある社会)を作っていくのか。

 人間という言葉がありますよね。和辻哲郎という私の好きな哲学者が『人間の学としての倫理学』という本を書いています。和辻は、人間という言葉に注目しました。「人間」って、考えてみれば不思議な言葉です。人の間と書きます。で、倫理の「倫」の字は、仲間という意味なんですね。和辻は、人間は「間柄」というものが存在して初めて人間となる、と言います。人間は単独者として存在しているのではない。間柄というものを持った時に人間は人間となり、そして、仲間との「理」である倫理というものが誕生する。そういう社会的な存在として、人間や倫理はあると考えました。