テレビは本当につまらなくなったのか!? いつの時代も批判にさらされるテレビの影響力とその変遷

 「最近のテレビはつまらない」という声をよく聞く。一方で「本当につまらないのか?」と疑問視する意見も増えてきた。毎日新聞の5月15日付「記者の目」(若狭毅記者)も「テレビ放送開始から60年。魅力的なコンテンツをこれほど楽しめる時代があっただろうか」と書いている。

 確かに、『ガリレオ』(フジテレビ)などのドラマの質が、昭和の時代より劣るとは思えない。『相棒』(テレビ朝日)は再放送でも二桁の視聴率を記録する。つまらなかったら、こんなにも見られないだろう。

 バラエティーだって趣向を凝らしている。池上彰氏がお笑い芸人たちを相手に社会問題を分かりやすく解説してくれると思えば、ナインティナインはAKB48の学力を暴いてくれるし、ダウンタウンが若手芸人たちを容赦なく虐げて笑わせてくれる。正当派の『笑点』(日本テレビ)も健在だ。「くだらない」という批判もあるが、昔から格調高いバラエティーなんて存在しない。ドリフもひょうきん族もくだらないから楽しめた。

テレビとネットの役割分担が整いつつある

 実のところ、いつの時代もテレビは批判にさらされる。戦前・戦後におけるマスコミ界の巨人・大宅壮一氏は「テレビの台頭は一億総白痴化を招く」とまで言った。けれど、テレビ誕生から60年が過ぎても日本人はそうなっていない。

 それでも地上波の視聴率が低下しているのは事実で、ゴールデンタイムの総世帯視聴率(HUT)は、1990年代後半の70%前後から60%強にまで落ちている。しかし、この間にはBSやCS、ネットやゲームの出現があったので、テレビがつまらなくなったというより、地上波より面白いものを視聴者が見つけたというのが実情だろう。ハードディスク機器の普及により録画派も急増中だ。

 半面、「最近のテレビはつまらない」という声の主も理由なくテレビ批判をしているわけではないはずだ。批判で目立つのは「本音を明かさない」「情報を隠している」「中立性・公平性ばかり重んじて、踏み込みが足りない」という声だ。なるほど、つまらなくなったかどうかは別とし、テレビが変わったのは事実だろう。

 過去には事件の重要参考人にすらなっていない人物を、連日のように実名で「米国で妻を殺した疑惑の人」と報じていたのだから、随分と慎重になった。報道局のトップが「自民党政権を倒すよう指示した」との疑念を抱かれた1990年代と比べたら、かなり中立でもある。隔世の感だ。テレビは随分とスマートになった。2003年にBPO(放送倫理・番組向上機構)が生まれたせいもあるが、それより大きいのは2000年代におけるネットの台頭だろう。

 ビジネス界は市場原理の下で動いており、人件費の高騰と円高によって国内製造業がダメになったことは誰でも知っているが、同じようなことはマスコミ界でも言える。今では人権を第一に考え、マスコミ界の良心を標榜する新聞だが、1970年ごろまでは事件の容疑者を平気で呼び捨てで報じ、逮捕と同時に犯人扱い。しかも事件の本質とは関係のない容疑者の生い立ちなども詳述していた。そんな新聞が変質した大きな要因は、出版社系週刊誌の出現だった。

 1956年、天才編集者と呼ばれた斎藤十一氏によって、『週刊新潮』が創刊された。その後もライバル誌が次々と生まれ、競って犯人の実像や事件の暗部をとことん暴いた。同じことをやっていては、新聞の存在意義は希薄化してしまう。市場原理だ。しかも新聞は出版社系週刊誌を敵視し、その姿勢を批判したから、同じことをやれる道理がない。新聞は徐々にスマートになっていく。無論、自浄作用もなかったとは言わない。

 テレビも同じなのだ。ネット上の情報が玉石混交なのはご存知の通り。唸るばかりの高説や慧眼すべき情報もある半面、どう考えても嘘という話や眉唾の情報も並んでいる。誰でも情報発信できるのだから当たり前だ。テレビがネットと変わらないのでは、存在意義が薄れる。しかもテレビも長らくネットを敵視してきた。自然と以前よりも情報を精査するようになっている。慎重すぎると思えるときもある。けれど、結果的にはテレビとネットの役割分担が整いつつある。

 3.11が好例だろう。ネット上では真偽不明のさまざまな情報が入り乱れた。テレビでは許されない。もしも誤った情報を流せば、大混乱が生じる。良し悪しは別とし、多くの人はテレビを信じている。テレビが正確な報道をしようとするあまり、情報伝達において遅れた一面もあるだろうが、その代わりをネットが務めた。無意識のうち、両者の間には補完関係があった。

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