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ジブリ最新作主人公(ゼロ戦設計者・堀越二郎)「幻の名機 烈風」の設計図に込めた思い
フライデー
'37年7月、設計チームの仲間と撮影。中央が堀越で、左端が彼の「右腕」と呼ばれた曽根嘉年氏

 会社は '29年、堀越に、「支度金四百圓」(現在の約100万円相当)を託し、彼をヨーロッパ、アメリカに1年半派遣した。航空機の最先端技術を学ばせるためだ。

 歴史館に保存されている洋行時の資料からは、彼の几帳面で堅い性格がうかがわれる。冒頭で紹介したとおり、利用した客船の食堂メニューに加えて、領収証も一枚一枚保存してあるのだ。

 航空技術を学び日本に戻った堀越は、入社わずか5年で設計主任を任される。海軍から要請された新型戦闘機の設計だ。

「抜擢人事だったと思います。業績が悪かったからこそ柔軟な人材登用ができたんですね」(軽部氏)

 三菱の人事は成功だった。 '32年に堀越が設計した「七試艦上戦闘機」こそ実戦に採用されなかったものの、 '34年設計の「九試艦上戦闘機」(九試)は、日本製で初の世界水準の戦闘機として、中国戦線で活躍する。

「堀越はこのときから、『こだわりの人』としての顔を見せていました。部下から上がってきた部品の設計図を何度でも突き返すので、『ああ言えば堀越』と呼ばれていたという逸話があります」(軽部氏)

ゼロ戦と急須

 堀越の最も強いこだわりは、機体の美しさと機能を両立させることにあった。 '37年に設計を始めた「十二試艦上戦闘機」(後のゼロ戦)に、それが最もよく表れていると軽部氏は言う。

「エンジンの種類が決まると、堀越は、まずボディ全体のイメージを描き上げたのです。これは一般的な手順とは違います。なによりも流れるような美しい機体を実現させたかったんですね」