1980年代後半とマクロ環境が大きく異なる現在、バブル景気再来の可能性は小さいのではないか

 日本銀行は、白川総裁から黒田総裁、岩田副総裁の体制となり、4月4日に大胆な金融緩和を打ち出した。金融政策により株高円安がもたらされ、企業の増益やデパートの売り上げ回復など明るいニュースが聞こえるようになってきた。

 一方で、「輸入価格の上昇が家計への打撃になる」、「株高や地価の上昇によりバブル景気が再来する」など、さまざまな批判が黒田・岩田新体制による金融政策に対しなされている。

 確かに黒田・岩田新体制が行っている大胆な金融政策は、まず、株価や為替レートに働きかけ、その上で、株価の上昇や円安に対し企業や家計が投資や消費活動を活発化させるという、資産価格から実体経済への波及経路を重視する金融政策であり、円安となれば「輸入価格の上昇」、株高になれば「バブル景気」とそれぞれ批判を招きやすい政策である。

 しかし、「輸入価格の上昇による経済の打撃」と「バブル景気」は同時にはほとんど起こりえないことから、「批判」それ自体が目的化しているようにも見える。

 ここで、1980年代のバブル景気を振り返ることにより、バブル景気の発生した土壌と現在の日本経済を比べることにより、当時と状況が大きく異なることを見てみよう。

バブル景気の特徴を振り返る

 1980年代後半の株や土地に対する投機がバブル景気を特徴づけることとなる。

 例えば、株価は、日経平均が1989年12月29日に3万8915円が最高値となり、現在の日経平均は当時の4割程度となる。また、当時は土地に対する投機も活発であり、東京区部の全用途平均の市街地価格指数は1985年3月からピークの1987年9月まで、わずか2年半の間に3倍弱上昇した。なお、2012年3月現在の指数は当時の1/4弱の水準となる。

 バブル景気の要因については様々な指摘がある。例えば、金融自由化の進展を背景とした金融機関行動の積極化や、金融機関のリスク管理の遅れと自己資本比率規制の導入など、金融機関の行動に要因を求める分析がある。地価の関連では、東京への経済機能一極集中や東京「国際金融センター」構想、さらには、地価上昇を加速する税制などに要因を求める分析もある。

 次にマクロ経済の側面に着目し、当時を振り返る。

 1980年代、アメリカは財政赤字と経常収支の赤字という双子の赤字を抱え、その後、先進国を巻き込んで1985年9月のプラザ合意に至った。プラザ合意以降、急速に円高が進み、1986年に日本経済は円高不況に直面することになる。

 円高不況の中で、なぜ、バブル景気が発生したのか、複雑なパズルを解こうとするようなものだが、一つには原油価格の急落が要因として挙げられる(※岡田・浜田「実質為替レートと失われた10年」参照 / 2009年『季刊政策分析』第4巻1・2号合併号)。

 1970年代後半から1980年代初頭にかけて世界経済は第2次石油ショックを経験し、その後の原油価格は1バレル30ドル前後で推移してきた。ところが、1986年に入ると石油価格は急落し、1バレル10ドル台と1/3近くの水準となった。

 日本は資源輸入国であり、原油価格の急落は日本経済全体にプラスの効果をもたらすことになる。どの程度、効果があったのかは定量的に見ることは難しいが、当時のGDP比で2%近いプラス効果があったとみることもできるようだ。

 財政政策については、当時、円高不況に対処するために1987年5月29日に緊急経済対策がとりまとめられた。経済対策は、減税を含めて6兆円規模であり、対GDP比1.7%規模と大胆なものであった。

 その他にも、88年から89年にかけて、市町村に1億円ずつ配分した「ふるさと創生事業」や消費税導入前の所得税減税など、バブル景気の中で財政政策は比較的拡張的なスタンスであったと思われる。

 一方、金融政策については、プラザ合意当初は、長期金利を高めに誘導するなど引き締め方向に動いた。その後は、円高不況に直面し、公定歩合を5%から86年1月以降順次切り下げ、87年2月に2.5%の水準とした。なお、日本銀行は89年5月以降、バブル退治のために急速に金融引き締めを行い、91年7月には公定歩合は5.5%の水準となった。

 80年代後半のバブル景気については以上のような複数の要因が指摘されており、金融政策単独の力によりもたらされたものではないことを、まず記憶にとどめておく必要があろう。

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