現代新書カフェ
2013年05月17日(金) 川北隆雄

取り戻せるか『失われた20年』――迷走したバブル崩壊後の経済政策 第1章 焦土からバブルの「宴」まで

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焦土からの出発

「日本の損害の重大さがはっきりしてきた。見渡す限り一面の廃墟だった。ボロボロの着物を着た人たちは取乱した様子だった。石屑の山を掘り返して、新しく小舎を建てる空地をつくろうとしているものもあれば、煉瓦や木材を山と積み込んだ荷車を押したり引いたりしているものもいた。だが破壊のあとはあまりにも広く、こうしたあらゆる努力も役立ちそうには見えなかった。新築の建物は一つも見当らなかった。鉄道の車輌や機関車の骸骨が、レールの上に、そのままほうりっぱなしにされていた。電車も炎にとらえられたその場所におかれたままで、炎はその金属の部分をねじくり、電線をバラバラに切断し、電柱を蝋細工ででもあるかのようにひん曲げていた。腸を抜かれたようなバスの車台や自動車が道端にころがっていた」(マーク・ゲイン、井本威夫訳『ニッポン日記』1963年、筑摩書房)。

 1945年12月のことである。同月から約1年にわたって滞日した日本通の米国人ジャーナリストが、当時の横浜付近を活写したものだ。終戦から4ヵ月を経てもなお、首都・東京をはじめ日本の大都市は廃墟のままだったのである。この焦土の中から、日本政府はどのように経済、社会を立て直そうとしたのか。

 まず、決定的に不足していたのはモノである。とりわけ、当時の基礎的エネルギー源だった石炭、そしてあらゆる産業の根幹となる基礎的素材だった鉄鋼である。

 1945年11月の石炭生産量は55万4000トンで、35年~37年平均の16%にまで低下していた。46年度の鋼材生産量は32万3000トンで、同7.1%、セメントは103万4000トンで、同18%にすぎなかった。

 これら基礎的な原燃料の不足がその他の資材や、さらには国民生活に不可欠な日用品の不足につながっていたのである。

 この窮状を打開するため46年11月、当時の吉田茂内閣は首相の私的研究会「石炭小委員会」(委員長・有沢広巳東大教授)を設立し、石炭を中心とする資材の増産についての方法を研究させた。同委員会は短期間に石炭を第一目標とし、鉄鋼を第二目標とする増産計画をまとめた。石炭の採掘精製には鉄製の資材、機器が必要であり、鉄鋼の生産には鉄鉱石のほかに石炭を原燃料として要するからである。

 同委員会の研究結果を基に吉田内閣は同年12月、「昭和二十一年度第四・四半期基礎物資需給計画策定並に実施要領」を閣議決定した。同計画は、石炭、鉄鋼の両産業部門に対して資材・資金を超重点的に投入し、両部門相互間の循環的拡大を促し、それを契機に産業全体の拡大を図るというものだった。このため、「石炭・鉄鋼超重点増産計画」ともいわれる。これがいわゆる「傾斜生産方式」である。

次ページ  同計画の責任者は、翌47年1…
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