読書人の雑誌『本』
『四月七日の桜 戦艦「大和」と伊藤整一の最期』著:中田整一
未来に引き継がれる「命の転生」

 この春の桜の開花は、東京では平年より十日も早く三月十六日に発表となった。去年は三十一日だったので二週間も早かったことになる。

 東京・杉並の大宮八幡宮の近く、人見街道沿いに一軒の広い庭の家がある。屋敷からは、二本のソメイヨシノが、通りに向かって枝を太く幾重にも伸ばしている。戦時中、杉並の大空襲にも焼け残った樹齢八十年を超える親桜。もう一本は戦後にその根っこから芽が生えた蘖(ひこばえ)の子桜だ。

 拙著『四月七日の桜 戦艦「大和」と伊藤整一の最期』の中で、「父子桜」あるいは「伊藤桜」と名付けた桜だが、不思議なことに毎年、四月七日頃に満開となるのである。今年の「父子桜」の開花も、いつもの年より早まったが、この桜を植えて逝った人物の四月七日の命日には、まだ花びらが散りがたく名残を惜しんでいた。

「父子桜」は、昭和二十年(一九四五年)四月七日、戦艦「大和」と運命をともにした伊藤整一中将(戦死後大将)が、戦争前に植えた桜である。庭いじりが大好きだった伊藤は屋敷に四季の草花を絶やさなかった。

 東京には、何十万本、何百万本の桜の樹があるだろうか。だがこの「父子桜」には、特別の意味がある。毎年、四月七日に爛漫の花を咲かせる「父子桜」の淡紅の花びらは、そのひとひらひとひらが「大和」と運命をともにした三千名余の若者たちとこの家のひとり息子の命の転生なのだ。

 伊藤家の長男叡(あきら)も父親の後を追って「大和」が沈んだ三週間後に沖縄特攻に志願して戦死した。「カミカゼ」特攻機の掩護に出撃した叡は、四月二十八日、伊江島上空に散っていた。二十一歳、子桜は、まるで息子の生まれ変わりのように戦後間もなく芽が出た桜だったのである。

 戦艦「大和」の第二艦隊司令長官伊藤整一は、組織の責任あるリーダーとして沖縄特攻作戦中に二度も若者たちの命を戦後に生かす決断をしている。

 四月五日、だしぬけに降ってわいた連合艦隊司令部からの沖縄海上特攻の命令に、伊藤長官は、当初激しく反対した。すでに制空権、制海権も奪われた今、敵の優れたレーダー網や潜水艦攻撃の前に出撃することの無謀を主張して抵抗した。何よりも「大和」の三千名余の将兵をはじめ第二艦隊全十隻の六千名余の命がむざむざと失われることに反対の理由があった。

 
◆ 内容紹介
海軍大将・伊藤整一は、沖縄へ向かう際、撃沈された戦艦「大和」を率いる司令長官として、艦とともに海に没した知米派軍人として知られる。昭和16年9月、開戦が不可避となったとき、伊藤は山本五十六ら知米派の期待を受け、作戦の意思決定機関・軍令部のナンバー2次長につく。しかし、おのれの考えと逆に海軍は破滅への道を突き進む。異例の3年4ヵ月次長の職にあった伊藤は、日本の敗戦を意識し、死に場所を求め「大和」と共に前線に立つ。その死は、4月7日だった。

開戦を疑い、特攻に反対した海軍大将は、最後に多くの若い命を救い、沖縄へ向かった。司令長官として「大和」とともに沈んだ父、沖縄へ出撃した特攻機で散った息子、二人を追うように娘を残して逝った母。伊藤が植えた桜は、今もその命日を忘れない。