『ふたつの震災』その後 【第4回】
探し続ける、支え続ける

取材・文/西岡研介、松本創

【第3回】はこちらをご覧ください。

雅人ちゃんを探すポスター。守雅さんはこれを何十枚と刷り、名取市内のほとんどの小・中学校や避難所に貼った(2011年4月18日 西岡撮影)
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 ゴールデンウィーク初日にあたる今月27日の土曜日にも、宮城県名取市閖上の海岸に多くのボランティアが集まるという。雅人ちゃんをはじめ、この地で行方不明になった41人の手がかりを探して---。

 「震災の月命日となる4月11日には、海上保安庁(宮城海上保安部)も再び、名取川河口の海中捜索を行ってくれました。震災から2年がたった今でもたくさんの人が、雅人や、他の行方不明になった人たちを探しに集まってくれるなんて・・・。ありがたい気持ちでいっぱいです」

 こう語るのは、雅人ちゃんの両親、竹澤守雅さん(45)とさおりさん(37)だ。

 竹澤さん夫妻は2年前の3月11日、この閖上で、さおりさんの祖母と両親、そして生後8ヵ月の長男、雅人ちゃんの4人を津波に奪われた。祖母と父親は遺体で見つかったが、母親のすみ子さんと雅人ちゃんは未だに行方不明だ。

"外"に向かって動き始めた竹澤夫妻

 『ふたつの震災』の取材は、この閖上の地から始まった。

 東日本大震災の発生から1ヵ月が経った4月18日、初めて被災地に足を踏み入れた私と松本創は、県道沿いの傾いた電柱に張られた、雅人ちゃんの行方を探すポスターを見て、呆然とその場に立ち尽くした。ポスターは震災発生から6日後に守雅さんが作り、貼ったものだった。

 このポスターを目にしてから2年、私は竹澤さん夫妻とお付き合いを続けている。

 震災発生から1年、つまり2012年3月11日までの夫妻の歩みや思いについては『ふたつの震災』に綴ったのでそちらに譲るが、それ以降の夫妻の生活にも少しずつ"変化"が見え始めた。

 といっても、我が子を失った親の哀しみは、どれほど歳月が流れようとも決して癒えることはない。ましてやその哀しみから「立ち直る」などということはあり得ない。それは今回の取材で、またこの東日本大震災を機に改めて、18年前の阪神・淡路大震災の遺族を取材して、分かったことだ。

 私が言う"変化"とは、絶望と哀しみの淵に沈んでいた(今もそうであることに変わりはないのだが・・・)彼らが、少しずつだが、"外"に向かって動き始めたことである。

震災発生から約1ヵ月後の名取市閖上の様子。竹澤夫妻は毎日のようにここで雅人ちゃんを探し続けた (2011年4月18日 西岡撮影)

 名取市の死者は911人、行方不明者は41人。そのうち閖上地区の犠牲者は8割を超える約750人で、同地区では住民の6人に1人が津波に浚われた。なかでも震災発生当時、さおりさんの祖母、両親、雅人ちゃんの4人がいた、さおりさんの実家があった閖上2丁目の死者・行方不明者は214人で、4人に1人が犠牲となっている。

 だが、閖上地区を津波が襲ったのは午後3時55分ごろで、地震発生から津波到達まで約1時間10分の時間があった。

 震災前、名取市では20基の行政防災無線を設置していた。さらに地域防災計画では、宮城県沖地震を想定し〈 地震発生後約55分で初動が到達すると予想し、住民へサイレン、広報車、ヘリコプター等で知らせ、住民の避難を40分~50分で終了 〉するとしていた。が、震災発生当時、閖上地区では行政防災無線が故障し、広報車等による避難誘導もなかったことが明らかになっている。

 「あの時、適切な避難誘導が行われていれば、いや、サイレンだけでも鳴っていれば、雅人やお母さんだけじゃなく、より多くの人たちが助かっていたのではないか・・・」

 震災から1年以上が経ち、名取市の杜撰な防災体制が次々と明らかになるにつれ、それまでは哀しみに沈むだけだった竹澤夫妻の中でこんな疑問が膨らみ、それはやがて抑え切れないものとなっていった。

 守雅さんは昨年5月19日、他の遺族とともに「名取市震災犠牲者遺族会」(後に「名取市震災犠牲者を悼む会」に改称)を立ち上げ、その10日後には佐々木一十郎(いそお)名取市長に対し、行政防災無線の故障や市の避難指示・誘導などについて質す公開質問状を提出した。しかし市側の回答が不誠実極まりなかったことから、「悼む会」は再び、市に対し質問状を突き付けた。

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