ドイツ
日本最高峰の社交団体として創設された「日独協会」の歴史と今

 日本とドイツの国交は、1861年、江戸幕府とプロイセンの時代に始まった。今年で国交樹立152年目だ。

 そのあとプロイセンが大小あまたな領邦を束ねて、ようやくドイツ帝国を建てた1871年、新明治政府の超エリートグループ、岩倉使節団が欧米視察の旅に出た。彼らがアメリカからフランス、ベルギー、オランダを経てようやくベルリンに辿りつき、カイザーやビスマルクに会うのは1873年のことだ。つまり、プロイセンのドイツ統一の試みと明治維新は、ほぼ同時期に進行している。

Otto Edward Leopold von Bismarck (1815 - 1898)

 新生日本のエリートたちとビスマルクは大変相性が良かったらしい。その理由はいろいろあるが、推察するに、ヨーロッパの中でイギリスやフランスに後れを取っていたドイツの宰相は、日本という、やはり遅れてきた小国の必死の思いを感じ取って、共感を覚えていたようだ。

 「全ての国は礼儀正しく友好的に交わるが、それは外見だけ。本当はどの政府も違うことを考えている。強い国は常に弱い国に圧力をかけ、小さな国は大きな国にさげすまれる。プロイセンは長い間、弱小で哀れな状況にいた。今の日本は、まさに数年前のプロイセンだ。我々は、権利の保持と自己保存に努めねばならない。同じ状況にいる我々両国は、特別友好的に交わるべきである」

 ビスマルクは日本の使節団に、このようなことを懇切丁寧に説いたという。そしてそんな心のこもった老宰相の言葉が、一日も早く先進国に追い付こうと心に誓う日本使節団の胸にずっしりと響いたことは想像に難くない。

日本最高のソサイエティーに属する社交団体だった「日独協会」

 日本は多くの点で、ドイツを手本にしている。軍制だけでなく、法制も、歴史も、音楽も、医学も、建築も、憲法も、多くをドイツに学んだ。森鴎外、北里柴三郎、福沢諭吉は、ドイツ留学生だ。伊藤博文はドイツの憲法を学んだのち、大日本帝国憲法を起草した。

 こうして緊密になっていった日独関係が冷め始めたのは、次第に日本が力を養い、アジアを切り分けようとしていた列強の邪魔者になってきたからだ。日本が日清戦争(1894-95年)で中国を破り、遼東半島を占領すると、独仏露がグルになり、遼東を中国に返せと迫った。「三国干渉」である。

 まだ力のなかった日本は、泣く泣く引き下がるしかなかったが、日本を追い出したあと、ロシアはすぐに遼東半島を占領した。これが日露戦争(1904-05年)を引き起こし、大国ロシアまで打ち負かした日本は、ますます列強に警戒されるようになった。

 今、信濃町にある「日独協会」は、その日露戦争後、1911年に設立された。その他にも、横浜の「ゲルマニア」や、神戸の「コンコルディア」など、今はすでに忘れられたドイツ人クラブがたくさんあったというから、在日ドイツ人の数は少なくなかったと思われる。1913年には、ドイツ人イエズス会士によって上智大学が設立されている。

 日独協会の歴史を見ると、創設時の総裁が久邇宮邦彦殿下(前皇后陛下の父君)で、副総裁が侯爵陸軍大将桂太郎(元首相)、会頭が枢密顧問官子爵青木修三(元駐独大使、外務大臣)と、やんごとなきお顔ぶれだ。名誉会員にも、駐日大使、侯爵西園寺公望(首相)、元帥山県有朋が名を連ねる。当時の日独協会は、日本最高のソサエティーに属する社交団体の一つであったらしい。現在のあまりにも小ぢんまりとした様子からは、なかなか想像しがたい。

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