ブルーバックス
『食欲の科学』
食べるだけでは満たされない絶妙で皮肉なしくみ
櫻井武=著

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ときに「魔物」となる食欲の謎に第一人者が迫る!

 脳は体重を一定に保つべく、食欲を巧妙にコントロールしている。しかし、ヒトはときに自分の食欲を制御することができなくなってしまう。食欲を「魔物」に変えるのもまた、脳なのだ。脳内で食欲がつくり出されるしくみを脳生理学のトップランナーが解き明かし、「ヒトの食欲」のメカニズムに迫る。

はじめに

 すべての動物は、食べなければ生きていくことはできない。そして、子どもにも献身的な努力をして、食べ物を与えている。

 私たち人間も、自分が「食べる」ため、そして家族を「食べさせる」ために仕事に励んでいる。人と人とのつながりをとりもつにも食べ物は不可欠だ。人をもてなすとき、それは食事によってなされることが多い。バレンタインデーでは愛する人に甘いチョコレートを贈る。デートでも食事はひとつのキーポイントだ。食は愛情と深く結びついた、やさしさの象徴でもある。

 中原中也の「別離」という詩は別れのつらさをうたった作品だが、その中に次のような一節がある。

  何か、僕に、食べさして下さい。
  何か、僕に、食べさして下さい。
       きんとんでもよい、何でもよい、
       何か、僕に食べさして下さい!

  いいえ、これは、僕の無理だ、
       こんなに、野道を歩いてゐながら
       野道に、食物、ありはしない。
       ありません、ありはしません!

 愛するひととの別れという絶望的な状況で、食べ物を与えられることは救いであり、恵みである。食べ物こそ情愛の象徴であり、それが得られないことを悲しみと絶望の象徴として痛切に描いている。

 ヒトにとって、生物にとって、食べ物は生きるために必須のものであるがゆえに、食物とは特別のものであり、なによりもの「報酬」なのである。

 大自然ではいまも厳かな自然の営みがなされている。弱肉強食の野生の世界で生き残るためになさなければならないことはたくさんあるが、何はなくともやらなくてはならないのが「食べる」ことだ。昔から動物にとって、いかにして食にありつくか、ということが生き抜くうえでの最重要課題だった。ペットを飼っている人は、餌をあげるときに彼らがどんなに喜び、興奮するかを見れば、動物にとって「食」がどれほどの意味をもっているかがわかるだろう。

 長い進化の歴史を通じて、生物はつねに飢えにさらされてきた。本書で読み解いていく「摂食行動の制御システム」は、飢えによく対応できるよう必然的に進化したものである。生物にとっては飢えをしのぐことこそが、地球に誕生して以来の最大のテーマだったからである。

 だがその一方で、進化をきわめた人類はいま、飽食の時代を迎えている。皮肉なことにそこでは、飢餓の時代に対応してきた生体システムがうまく対応できず、肥満とそれに伴うメタボリックシンドロームの脅威が先進国を中心に広がりつつある。また、生活スタイルや価値観の多様化のなか、神経性食欲不振症(いわゆる拒食症)をはじめとする摂食障害に苦しむ人も増加傾向にある。

 初めて飢えを克服した生物であるヒトにとって、食欲はただ空腹を満たせばすむ欲求であるだけでなく、非常に複雑な要因から生み出され、あるいは抑制されてしまうものへと変質をとげたのである。このようなヒトの食欲は、1970年代までは、心理学的、行動学的な興味の対象だった。だが現代では、ヒトの食欲は明らかに脳の問題であることがわかってきている。「食欲」は究極的には脳がつくっているものである。脳が食欲を生み出すことによって私たちは空腹を感じているのだ。したがって、本書で取り扱っていく内容は必然的に、脳のメカニズムを中心に食欲をとらえようとするものになる。

 摂食行動のメカニズムは、マウスやラットを中心とした実験動物によって解明されてきた。しかし、ヒトはほかの動物と比べてきわめて特殊な食生活を営んでいる。まず、多くの人は朝・昼・晩と、ほぼ規則正しい時間に食事を摂る。さらに、食事が習慣化し、空腹のためではなく「おいしいから食べる」、つまり、おいしさという報酬を得るために食べるという側面が、非常に大きくなっている。本書ではこうしたヒトの食生活の特殊性に踏み込み、私たちにとって食欲とはなにかを、現時点で確実なものとされている知見をもとにも、考察しようと思う。

 基本的に食欲は、不足しているエネルギーを摂取するための機構である。そこで脳には、全身のエネルギーがどのくらい不足しているのか、あるいは足りているのかをモニターするシステムがある。エネルギーが不足している状態が、すなわち空腹である。空腹は行動に影響する。そして空腹によって「お腹がすいた」と感じ、摂食行動を引き起こすためには、脳の広汎な機能が必要である。摂食行動とは、食欲を感じ、食物を探す行動から、実際にそれを口に運び咀嚼して飲み込み、消化して体内に栄養として取り込むことまでをも包括するものといってよい。こうした複雑な行動が引き起こしているのが、脳全体の機能なのである。

 脳がエネルギー状態をモニターするシステム、そしてその情報が脳内に伝えられ、食行動へとつながっていくメカニズムを明らかにすることで、みなさんが日常感じている食欲や食行動に関する疑問にもお答えできるのではないかと思っている。

 生命に深く根ざすシステムである食欲が、生きるためになくてはならないものであることに変わりはない。生命の根源的なところに強く結びつく欲求である食欲は、こころにも直結する。毎日の食事、そしてときおり贅沢をしていただく特別なご馳走に比肩しうる幸福は、人生のなかでもまれだろう。私たちの生活も心も、食に大きな影響を受けている。これほどまでに身近で大切なシステムである食欲について、少しだけ深く考え、見つめ直す機会を読者のみなさんに提供できれば幸いである。

 なお、本書を出版するにあたり、大変お世話になった講談社ブルーバックスの山岸浩史氏と、私の研究室のメンバーたちに深く感謝の意を表したい。

著者 櫻井武(さくらい・たけし)
1964年東京生まれ。筑波大学大学院医学研究科修了。医師、医学博士。日本学術振興会特別研究員、筑波大学基礎医学系講師、テキサス大学ハワード・ヒューズ医学研究所研究員、筑波大学大学院人間総合科学研究科准教授を経て、現在、金沢大学医薬保健研究域医学系研究科教授。1998年、覚醒を制御する神経ペプチド「オレキシン」を発見。脳内新規分子の探索を進めつつ、睡眠・覚醒機構や摂食行動の制御機構、情動の制御機構の解明をめざしている。平成12年度つくば奨励賞、第14回安藤百福賞大賞、第65回中日文化賞受賞。著書に『睡眠の科学』(ブルーバックス)、『<眠り>をめぐるミステリー―睡眠の不思議から脳を読み解く』(NHK出版新書)。
『食欲の科学』
食べるだけでは満たされない絶妙で皮肉なしくみ

著者:櫻井武

発行年月日:2012/10/20
ページ数:202
シリーズ通巻番号:B1789

定価(税込):861円 ⇒本を購入する(Amazon)


 
(前書きおよび著者情報は2012年10月20日現在のものです)