『ヒッグス粒子の発見』
理論的予測と探究の全記録
イアン・サンプル=著 上原晶子=訳

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「神の粒子」を追い求めた科学者たちの熱き闘い──。

 はじまりは、6人の物理学者による3編の論文だった。「質量の起源」を明らかにする標準理論の最後の1ピース=「ヒッグス粒子」は、いかに予測され、探索されてきたのか?
 自らの名を冠されたヒッグスの苦悩、巨大加速器の予算獲得をめぐる争い、ライバルを出し抜こうと奔走する者たちの焦りと妬み、人類史上最大の実験装置を作り上げた科学者たちの苦闘と栄光……。
 英国最優秀科学ジャーナリストが活写する半世紀におよぶ群像劇のすべて。

プロローグ

 フランス東部の山村・クロゼは、のどかな田舎の風情がはるか遠くまで見渡せる雄大な光景を誇る。眼下に望む一帯には、村々と農家の家屋が点在し、狭い道路が幾筋か、それらをつなぐように曲がりくねりながら延びている。その景観には、巨大な円を描くように建ち並ぶ一握りの現代的な建物を除けば、特別変わったようすは何もない。

 だが、この村は、どこにでもあるありふれた山村とは、まったくといってよいほどかけ離れた場所なのだ。地表に建つ一群の建物の一部には、地下に設置された、人類史上最大かつ最高の機能をもつ装置に達する深い立て坑が隠れている。もしも、巨人が地中からそのリング状の装置をはぎ取って垂直に立てたなら、地上5マイル(約8キロメートル)以上の高さに達するだろう。その装置を起動するには、かなりの規模の都市のまるまる1ヵ月分に相当する電気代の請求書が舞い込むことを覚悟しなければならない。

 ここは、ジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究機関(CERN)が運用する「大型ハドロン衝突型加速器(LHC:Large Hadron Collider)」の本拠地だ。20ヵ国以上の国々が合同で数十億ドル規模の建設資金を拠出し、完成までに10年以上を要した巨大な“怪物”である。ここと世界中の研究室にいる1万人の科学者たちが、LHCが量産する情報とつながっている。

 LHCの内部では、原子や、原子より小さい粒子(亜原子粒子)を光速近くまで加速し、互いに正面衝突させている。このように、お膳立てされた破壊行為によって、万物に生を与えた「ビッグバン」と呼ばれる宇宙爆発の直後、“最初の瞬間”に存在した状態を再現するのだ。原始に起こった爆発と同じ状況下で、ほんの一瞬だけ生じるごく小さな破片の中に、科学者たちは自然界における最大級の謎に対する答えを探究している。

すべては「場の目覚め」から始まった

 そのような謎の中でも、おそらく最高に興味をかき立てるものの一つが、半世紀近くものあいだ、ずっと科学者たちにのしかかり続けてきた。はっきりいえば――、彼らは「なぜ、物にそれ自体の“重さ”があるのか」を説明できないのだ。答えに近いところまではいける、いや、実際に非常に惜しいところまで迫ることはできるのだが、つねに何かが欠けている。

 彼らには、その理由がわかっている。何かの物質を衝突させ、ちりほどの大きさに、さらに原子に、そしてさらに亜原子粒子にと、より小さく粉砕していくと、最終的には物質を構成する最小単位に到達する。不可解で厄介なのは、科学者たちには、このような素粒子――すべての物質を構成しているもの――になぜ重さがあるのか、その答えがまったく見当もつかないということだ。

 1964年、エディンバラにある自身のオフィスで、紙とペンのみで研究に取り組んでいた一人の物理学者が、「ほとんどの科学者が信じているものこそ、その謎の答えだ」ということに、ふと気づいた。

 その物理学者、ピーター・ヒッグスは、宇宙の隅々にまで広がる、目には見えない「場」を思いついたのである。宇宙誕生の瞬間には、その「場」は働いていなかったが、生まれたばかりの宇宙が膨張して冷却したとき、その「場」が目覚め、存在を主張し始めた。その瞬間、物質の最小構成単位である素粒子が、重さのない状態から重さのある状態へと変化した。“質量ゼロのもの”が“質量をもつもの”へと姿を変えたのだ。