官々愕々
主権回復運動のすゝめ

 昨年の衆議院選挙における一票の格差について、違憲判決が相次いだ。広島高裁と同岡山支部では相次いで無効判決まで出た。特に岡山支部の判決は、猶予期間も置かない即無効判決である。マスコミは、このニュースを大きく取り上げた。国民主権という憲法の定める根本理念が、これまであまりにも軽視されてきたことをあらためて認識した国民も多かったのではないか。

 しかし、今は大騒ぎしているマスコミも、昨年の衆議院解散の時には、一票の格差を放置したまま選挙をすることがおかしいということは、一応申し訳程度に言及はしていたものの、声高に批判する論調は皆無だったといってよい。大マスコミ自身が、この問題を軽視してきたのは疑いもない事実だ。

 これとは次元は違うが、「主権」というものについて、もう一つ、象徴的なことが起きている。それは、政府が本年4月28日に「主権回復の日」の記念式典を開催すると閣議決定したことだ。ご存知のとおり、1952年4月28日に、サンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄、奄美、小笠原を除く日本の主権が回復した。つまり、この日は、沖縄などが切り離されて、残りの本土だけの主権回復で満足させられた、日本にとっての屈辱の日なのだ。しかし、それを祝うということに根源的な疑問を呈している報道は全国紙にはない。そうした問題点を指摘はするが、あくまで、沖縄などの切り離された人々への「思いやり」とか「配慮」というレベルに矮小化しているような印象を受ける。

 国会によって一票の価値を半分以下に切り捨てられている事実。そして、過去に国家が主権者たる沖縄県民の意思と無関係に沖縄の主権を放棄したことを忘れて、沖縄の施政権返還後も県民の意思とは無関係に米軍基地を提供し続けている事実も、全ては、主権者が国民であるという憲法の根本理念が形骸化していることの表れのような気がしてならない。

 考えてみれば、最高裁もずっと違憲なはずの一票の格差をなんだかんだと言って事実上黙認してきた。憲法上の責務を果たしていなかったと言われても仕方ないだろう。そして、私たち自身、その最高裁判事の国民審査で、罷免に値する判事を選ぶことができるのに、その権利を十分に行使してこなかった。その結果、気がついたら、自らの権利が半分に切り捨てられていたのだ。さらに言えば、政治・行政は国民が選んだはずの国会議員と国会議員が選んだ政府に委ねていると思っていたら、何と自分たちが選んだわけでもない官僚たちが実際には日本の舵取りをしていた。これに対して、私たちは多少の不平不満は述べつつも、結局は「仕方ない」と放置してきた。その結果が今日の状況だ。

 もう一度、国民が、自分たちが主権者だという自覚を持って主権回復運動をしなければ、この状態は変わらない。

 今、主権者としての意識を最も強く持っているのは沖縄県民ではないか。基地に反対する県民の怒りは、単なる基地問題ではない。一度は沖縄の主権を放棄した日本政府が、沖縄に対してアメリカ統治の象徴であった基地をそのまま押し付けながら、主権回復を祝う。その矛盾に対する怒り。「主権回復の日」に反対する沖縄の人々の憤りに表れているのは、日本政府に対して、その統治の正当性を問い質す、沖縄の人々の主権回復運動という性格を持つ。その先には、沖縄独立運動さえ見えてくる。

 沖縄の人々から学ばなければならない。我々も闘わなければ、いつ主権者の座から転げ落ちるかわからない。すでに多くの人がその権利を半分失っているのだから。

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「核のゴミ」を処理できないという大問題の解決策がない以上、「原子力は悪である」という前提に立った上で取り扱うべきだという「倫理感」が国民の共通基盤になるはずだという筆者の思いは、熱く、なおかつ説得力がある。
 福島第一原発の事故で原発の恐ろしさに目覚めた人、原子力ムラの企みと横暴に怒りを感じた人、そして「脱原発」を目指す多くの人に、真実を伝え、考える道筋を示し、そして希望を与える「魂のメッセージ」。