第27回 遠山元一(その三)
新聞に躍る言葉「株式ブーム」---一般市民が投資熱に見舞われた時代とは

 昭和二十三年、新証券取引法案が連合軍総司令部の承認を受けた。翌年、GHQから昭和二十年に出されていた、取引所再開禁止の覚書きの撤回についての声明が発表された。

 証券取引法の成立に鑑み、取引所を会員組織とする事が決定された。同時に同法の運用に当たる証券取引委員会が発足した。

 委員長は、日本証券取引所総裁、貴族院議員等を務めた証券界の大立者、徳田昂平。元一は理事会議長に収まった。

 しかし実際の取引への道のりは遠く、昭和二十四年四月二十日になって、ようやく取引所再開の条件である、三原則が、GHQ証券担当官から提示された。

 一、会員は上場銘柄の取引に於いては、すべて取引所で行う事。
 二、取引所における取引は、すべて行われた順序に従い取引すること。
 三、先物取引を行わないこと。

 かくして、昭和二十四年五月十六日、証券取引所は立会を再開した。

 ところが当時の日本経済は、GHQ経済顧問ジョセフ・ドッジの管理下に置かれていた。

 デトロイト銀行の頭取だったドッジは、すでに西ドイツで通貨改革を成功させたという実績を背景に、ニュー・ディーラーたちを無視して日本経済の改造を進めた。

 ドイツとは異なり、日本では通貨改革はやらない、単一の為替レートを維持し、均衡財政と健全な通貨政策でインフレを安定させ、アメリカの援助に頼る事なく、輸出国家として日本は自立する・・・・・・後世から見れば、ドッジラインはきわめて合理的な政策ではあったが、発足当初、証券取引所は、不振を極めていた。

 しかし、昭和二十五年、朝鮮動乱が勃発すると潮目は完全に変った。

 日本は、アメリカのための一大軍需基地として大車輪のありさまだった。

 軍需が伸張するなか、昭和二十五年七月、東証ダウ平均八十五円二十五銭の最安値をつけたが、八月二十二日には百十四円九十九銭まで伸びた。

 以降株価は、一本調子で上がり、二十八年一月には、四百十四円三十九銭まで騰がった。