[サッカー]
田崎健太「里内猛が描く日本の未来図Vol.5」

~ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ~

魅力的だった82年W杯のセレソン

テレ・サンターナが監督だったセレソンの中心選手、ソクラテス

 世界各国、代表選手選考には「どうしてこの選手を選ばないのか」と、必ず不平不満が出るものである。中でも、世界トップクラスのチームが幾つも作ることができるであろう、ブラジルはその傾向が強い。

 ブラジル人は酒を飲みながらサッカーの話をすることが大好きである。「どの時代の代表が最強か」というのは、その中でよくある話題だ。
――お前はどの代表が一番いい代表だと思う?
 年配のブラジル人はそう尋ねた後、だいたいこう付け加える。
「もちろん1970年の代表は除いてね」

 ブラジルで最も評価の高いのは、ペレ、トスタン、リベリーノがいた70年W杯の代表である。それ以外で人気があるのは、82年W杯の代表である。ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ――クワトロ・オーメン・ジ・オウロ(黄金の中盤)を揃え、大会前から優勝候補と目されていたが、パオロ・ロッシのいたイタリアに敗れてしまった。

「自国のサッカーが世界一だ」という強い誇りを持つブラジル人が、優勝できなかったチームを好むことは異例である。それだけ、テレ・サンターナ監督の率いる代表は、公平に選抜され、サッカーが魅力的だったということだ。

 それまでブラジル代表は地域ごとの縄張り意識が強かった。サンパウロ出身の監督が就任すれば、サンパウロ周辺の選手。リオ・デジャネイロ出身の監督ならばリオ周辺の選手を優先して選んでいた。テレの代表は、リオのジーコ、サンパウロのソクラテス、中部ミナス・ジェライス州出身のセレーゾ、南部ヒオ・グランジ・ド・スール州出身のファルカンと、1つの地域にとらわれなかった。

 そして何より、ブラジル人の愛してやまないスタイル、“Jogo bonito”(ジョーゴ・ボニート)、“futebol arte”(フットボウ・アルチ)を追求した。それぞれ「美しいゲーム」「芸術サッカー」の意味である。テレは攻撃的で華麗にパスを繋ぐサッカーの信奉者だった。

 里内猛はジーコの手引きで93年2月から2カ月間、テレが監督を務めるサンパウロFCで研修を受けることになった。同行したのは、選手の長谷川祥之と吉田康弘である。
 テレの率いるサンパウロFCは、全盛期を迎えていた。前年の92年にリベルタドーレス杯を初制覇(93年も連覇することになる)し、チームにはライー、ミューレル、ロナウダン(後に清水エスパルス)、カフーというブラジル代表の中心選手が所属していた。

 サンパウロFCは、88年にブラジルのクラブとしては初めて近代的なトレーニングセンターを市内のバハフンダに建設している。トレーニングセンターは3つの芝生のピッチ、ミニサッカー場、ゴールキーパー専用練習場などを備えていた。

 テレの部屋はクラブハウスの2階、3つのピッチを見渡せるところにある。午前中、トレーニングセンターに現れると、まずピッチを歩いて芝生の長さを確認した。そして、次の試合会場に合わせて、芝生の長さを調節した。例えば、バスコ・ダ・ガマの本拠地サンジョノアーリオは芝が長く、足を取られる。ブラジルのスタジアムの芝はそれぞれ癖があるのだ。