第24回 山崎種二(その三)
橋、倉庫、日本画。株で儲けて貯金した「ケチ種」のカネの投じ方

 種二は、「ケチ種」と呼ばれていた程のしまり屋だったが、金を投じる時には思い切りがよかった。

 徴兵検査で帰郷した際、高崎の鏑川で川止めにあったという。その時、橋があれば、皆が不自由しないのに、と思った。

 昭和五年の金解禁相場で大儲けしたので、宿願を果たし、星川橋と塩畑堂橋を架け、その道を県道にして貰い、当時、内務大臣だった安達謙蔵に開橋記念の碑文を揮毫してもらった。

 自ら架けた橋に、後年種二は助けられる。

 太平洋戦争のさなか、荷物を疎開する時、家財道具と美術品を積んだトラックで、塩畑堂橋を渡る事が出来たのである。

 昭和六年、種二は、兜町と麹町三番町に、土地を買った。独立してから、十年間は建築しない、と種二は決めていたという。

 そうして、建築資材を扱っている会社の株を買った。鉄筋建築には丸棒が必要なので、日本鋼管の株を買い、セメントのために浅野セメントと云う具合に、日立、東京電燈と株を買っていた。

 買っておいた株の利食いが案に相違して大きかったので、十年待つことはせず、三年目に店と住居を同時に建てた。

 店舗は五階建て、総大理石で、自動エレベーターだった。当時、自動エレベーターを備えたビルは、少なかったという。

 三番町の家は、総檜造りで「御殿」と呼ばれる程、豪奢だった。坂道の道路に沿って石垣を築き、門は観音開きの冠木門、車寄せまで玉砂利の道、大型自動車二台が入るガレージもあった。

 種二は、住まいであれ、店舗であれ、建築をする時には、必ず、評判のいい建物を見学して、勉強したという。種二が東京で一番いいと思っていた建物は、服部時計店(現在の和光)だったそうな。