[虎四ミーティング]
駒田徳広(プロ野球解説者)<後編>「強運のプロ野球人生」

スポーツコミュニケーションズ

決意した脱“荒川方式”

二宮: 自分から「ダウンスイングは辞めたい」とは言えなかった?
駒田: 監督の王さんからの紹介でしたし、なかなか言えませんでしたね。自分でも原因がはっきりとわかっていたわけではありませんでしたから。

二宮:  84年から打率2割台が続いていましたが、 87年には初の3割に達しました。この頃は、ダウンスイングではありませんでしたよね。スタイルを変えたきっかけは何だったのでしょう?
駒田: 荒川さんのところには1年間ほど通っていたのですが、 85年の開幕から2つ目のカードで二軍に落とされたんです。それで、コーチの末次利光さんに「二軍に落とされるのなら、自分の思う通りにやらせてください」とお願いしました。実はヘッドコーチの須藤豊さんも「あの打ち方、いつまでやらせんるんだ?」と言っていたらしいんです。

二宮: 末次さんもどちらかというと、ダウンスイングでしたよね?
駒田: はい。ただ、荒川さんの指導ほどではなく、ダウンとレベルのちょうど中間くらいですね。それを僕にも指導してくださっていたのですが、僕自身が「こうやらなければいけない」という感じだったので、末次さんも悩んでいたと思いますよ。それで末次さんも「わかった。オマエの気持ちは王監督に伝えておくから」と言ってくれたんです。それで僕も安心して二軍の試合ではダウンスイングをしなかったんです。そしたら、番記者から「どうして、足を上げなくなったんですか?」と質問されてしまいました。「自分なりにやってみようと思っています」みたいなことを言ったら、翌日のスポーツ新聞に<駒田、荒川さんの所には行かず、自分でやる>みたいな風に書かれてしまったんです。これはマズイことになったな、と思いましたよ。

二宮: でも、王さんにも事前にそのことは伝わっていたわけでしょう?
駒田: ところが、誰も王さんに伝えていなかったんです。だから新聞記事を読んで初めて知ったんです。案の定、王さんから呼び出されましたよ。「この記事に書かれてあることは、自分で決めたことか?」と聞かれたので、僕は「はい、自分なりにやってみたかったんです」と正直に答えました。そしたら「そうか、わかった。ただし、自分で決めたんだったら、責任を持ってやれよ」と。そして、王さんはその日の夜、荒川さんの所に行って「私の方から頼んだことなのに、申し訳ありませんでした」と謝りに行ってくれたんです。僕に対しては、ひとつも叱らずにですよ。本当に、王さんには感謝しています。

二宮: 自分なりのバッティングに対して自信をつけたのは、いつ頃だったのでしょう?
駒田: ダウンスイングを辞めて、2年目の 86年のシーズン終わり頃でしたね。あの年は広島と優勝争いをしていて、残り 10試合ほどは両者ともに1敗もできない状況でした。ちょうどそんな時に、原辰徳さんがファウルチップで骨折してしまって、僕に出番がまわってきました。しかも、いきなり5番を任されたんです。突然の抜擢に驚きましたけけど、そこで結果を出したんです。これは自分にとっても大きな自信となりました。

二宮: その頃は、誰の指導を受けていたのですか?
駒田: バッティングコーチだった松原誠さんです。松原さんの指導は、どちらかというとレベルスイングに近く、ホームランよりも確実性を求めたバッティングでした。それを習得したのが大きかったですね。「3割打てるようにさえなれば、オマエはパワーがあるんだから、ホームランも 20本くらい打てるようになる。それを最初からホームラン 40本狙おうとするから、簡単なボールも打てずに2割台にしかならないんだよ。まずはセンター方向に強いライナーを打つようにしろ」と。それが僕のバッティングが開眼したきっかけでしたね。

二宮: この3年間くらいの迷いがなければ、もうあと 200安打くらいは打っていたでしょうね。
駒田: ただ、あの時期の迷いがあったからこそ、その後の自分があったのだと思いますね。自分にとって何が合っていて、何がダメなのかがわかりましたし、引き出しを増やすこともできたのかなと。荒川さんの指導にしても、あの憧れていた“世界の王”と同じ指導を経験したというだけで、とても貴重な時間となったことは間違いありません。