「ヒッグス粒子の発見」翻訳:上原昌子
ヒッグス粒子探索をめぐる壮大なドラマ

 二〇一二年七月四日、欧州合同原子核研究機関(CERN)が「ヒッグス粒子とみられる新粒子を観測した」と発表しました。ジュネーブ近郊の地下で二〇〇八年から稼働している「大型ハドロン衝突型加速器(LHC)」。その検出器ATLAS、CMS各実験チームの結果が新粒子を「発見」したと言えるレベルに達した(注:CMSはその至近値)というそのビッグニュースは世界中を駆け巡りました。

 そのようなマスコミの喧騒をよそに、その発見にどれほどの価値があり、なぜそれほど興奮する出来事なのか理解できず「とにかくよかったですね」と儀礼的な拍手をしてお茶を濁した人も実は多かったのではないでしょうか。

 学校で最初に習う古典物理学は、観測可能な物事の因果関係を示す哲学に基づいており、理解するのはそう難しいことではありません。電車が停止するときに体が進行方向に倒れそうになれば「慣性の法則」を、救急車が通り過ぎる際にサイレンの音が変わったように聞こえれば「ドップラー効果」を体感できます。ところが、顕微鏡でも見えない素粒子の世界は経験や直感で理解できるものではなく、書物を開いても、多くの人にとっては、わけのわからない数式と意味不明な説明の羅列が、別世界の言語にしか見えません。

 もちろん、宇宙のあらゆる物質や私たち自身の存在の基盤となる、物質の最小構成単位の実像とその解明が、自らに深い関わりがあり重要であると理解できれば、私たちはその研究にもっと関心をもち、支援する心積もりはあります。外部の者が納得のいくわかりやすい説明を求めるのはいつの時代も変わりません。

 実際、サッチャー元英国首相は在任中に「科学者は、ヒッグス粒子探索の理由を一般の人々に理解してもらう努力をすべきだ」と演説しています。サッチャー氏の言葉を継いだのが、退陣した彼女と次期首相両名の下で大臣を務めたワルドグレイブ氏でした。

 一九九三年、英国物理学会での講演で「財政難の英国政府にLHCの建設資金援助を望むなら、まず、その粒子が一体どういうものなのか、なぜその発見が重要なのかをA4紙一枚以内で私にわかるように説明せよ」という課題を出したのです。価値のわからないものに多額の援助はできないという姿勢には頷ける部分があります。

 
◆ 内容紹介
ピーター・ヒッグス本人をはじめ、主要科学者たちの証言を多数収録。英国最優秀科学ジャーナリストが圧倒的ディテールで描ききる迫真のドキュメント。
はじまりは、6人の物理学者による3編の論文だった。 「質量の起源」を明らかにする標準理論の最後の1ピース=「ヒッグス粒子」は、いかに予測され、探索されてきたのか? “とらえがたき怪物”が生み出した、半世紀におよぶ群像劇のすべて。