読書人の雑誌『本』
「意味・真理・存在―分析哲学入門・中級編」著:八木沢敬
身体が動く、脳が働く

 世の中には二種類の人間がいる。ランナー型とスイマー型だ。ランナー型は泳ぐのが苦手。水との接触はせいぜい入浴くらい。スイマー型は走るのが嫌い。走るのは罰か、あるいは猛犬から逃げる際にやむなくすること、というイメージ。

 水泳には利点が多い。全身運動である、筋肉のみならず循環器・呼吸器・消化器などにも良い、関節に優しい、身体を水に浸けることにより気分爽快になる、悪天候の影響がない、など。それに比べてランニングは、上半身が鍛えられない、膝や腰に衝撃が大きい、排気ガスや花粉などで健康を損なう、しわや皮膚のたるみを促進する、最新のウエアやシューズを身にまとわないと笑われる、などマイナス面が多い。

 にも拘らず私はランナー型である。昔は泳ぐのを日課としていたが、高度なテクニックで四肢を操ることが不得意な私には水が水飴のように感じられ、古代の海で非常にのろい動きをしている原始的な海洋生物という自己イメージを払拭できなかった。

 プールが混んでいて各レーンに数人のスイマーがいる時などは特に、自分の生物学的な限界を感じていた。そこである日、水中から陸に上がり二本足で立つことにしたのである。小気味よく空気を切って素速くリズミカルに移動するという行為は、自分は時空に存在する物理的実体であるという事実を心地よく肌で感じさせてくれた。原始的な生物という感覚はなくなった。進化したのである。

 ランナー型に変身した途端、ランニングのマイナス面は見えなくなり、利点ばかりが目について嬉々とした。自己正当化の良い例である。たとえば、運動はすべて血行を促進するので頭の働きには良い影響を与えるが、第二の心臓と言われる足を駆使するランニングは特に良い、重力に逆らっての運動であるランニングは骨を強くする、しわや皮膚のたるみはそれに気付く人の優越感をそそるので友達が増える、など。

 私にとって特に重要な利点は、頭がはっきりするという効果である。分析哲学者にとって脳の働きは重要だ(分析哲学者でなければ脳の働きは重要でない、というわけではない。私は落語家ではないが、声が出なくなったら困る)。分析哲学者として脳のためになることなら何でもやる用意があるが、不器用で、複雑なスポーツの技術を身につけるのがラテン語を読むより苦手な私にとってランニングはぴったりである(私はラテン語が読めない)。

 
◆ 内容紹介
世界的にみれば、現代哲学の主潮流は、あきらかに分析哲学にあります。しかしながら、我が国では、いまひとつ人気が出ない。論理思考であることも要因のひとつかもしれませんが、なによりも、これという入門書がない。そこで、世界の分析哲学シーンの最前線で活躍する著者が、わかりやすく、おもしろく、かつ本格的に分析哲学の入門書を書く、というのが本シリーズの狙いです。
本書では、フレーゲにはじまり、ラッセル、ウィトゲンシュタインを経て、クリプキー、クワインへといたる、現代哲学史のスーパースターたちの議論をふまえつつ、意味とはなにか、存在とはなにか、真理とは何か、といった哲学の根本問題に迫ります。 現代哲学のトピックをわかりやすく網羅しながら、分析哲学の世界に招待する、決定版中級編!