「東京新聞は護憲ですが、私は違います」
記者が社説と異なる主張をする自由こそ、ジャーナリズムの基本だ

 このコラムは「ニュースの深層」というタイトルが付いている。だから、普通は日々のニュースについて裏側とか背景事情とか、私の見方を書くことになる。今回はちょっと趣向を変えて、私の立ち位置について書いてみたい。

 私は「完全に中立な立場からの報道」というのはない、と思っている。同じテーマを報じていても、報じる側、つまり記者によって事実の解釈も分析の角度、深さも異なる。それは当然だ。記者によって経験も力量も、そもそも取材源だって異なるからだ。言い換えれば、ニュースにはみんな「記者の色」が付いている。

 だから「ニュースの深層」というとき、報じられる側、つまり取材対象である官僚とか政治家の事情や思惑に目を凝らして、そこを深く掘り下げるという作業と同時に、実は報じる側、つまり記者の事情を紹介するのも大事な作業になる。取材対象と記者の双方に目を配って互いの事情と思惑、それらの交錯のありようをよく考えてみる。そういう双方向の作業が重要になる。

 そういう考えから、ここ数年、私は政治や報道を観察するとき、同時に記者の側も観察してきた。たとえば『日本国の正体 政治家・官僚・メディア―本当の権力者は誰か』(講談社、2009年)はそういう仕事だ。1月に上梓した『政府はこうして国民を騙す』(同)は当コラムの連載が柱になっているが、同じように記者の側にも視線を向けている。

自分の意見が社説と異なる場合があるのは当然

 そこで報じる側の1人である私自身について書く。

 私はジャーナリストが本業と思っている。東京新聞論説副主幹という仕事もあるが、それは私の仕事の一部だ。それ以外に当コラムも書いているし『週刊ポスト』にも連載コラムを書いている。ときどきテレビやラジオでも発言する。本も出す。それら全体が私の仕事である。東京新聞はそんな私の立場を容認している。

 そういう中で、私の署名がないのは東京新聞と中日新聞に書く社説だけだ。それは文字通り「社の説」という建前になっているからだ。社説は私だけが執筆しているわけではない。私と違う意見を持つ論説委員が書く場合があり、むしろ私以外が書く場合がほとんどである。

 そういう事情だから、東京新聞の社説と私の意見は異なる場合がある。最近でいえば、憲法改正問題だ。

 東京新聞は基本的に護憲の立場に立っている。しかし、私は改憲に賛成である。この点は社内でもかねて明言していたが、社外に向けて公言したのは、1月26日未明に放送されたテレビ朝日系列『朝まで生テレビ!』の番組中が初めてだった。同日朝のBS朝日系列『激論!クロスファイア』でも、同じく改憲の立場で発言した。

 その際、視聴者の誤解を招かないように「東京新聞は護憲ですけど、私は違います」と東京新聞の立場についても注釈を加えた。中には「論説副主幹という立場で社説と違う意見を言っていいのか」という向きもあるかもしれない。実際、社内にもそういう意見がある。

 だが、私は論説副主幹だろうがヒラの論説委員だろうが、自分の意見が社説と異なる場合があるのは当然だと思っている。社説というのは論説委員の集団討議で決まっている。なかなか意見を集約しきれなければ、最終的には論説主幹がまとめる。結論が出たからといって、論説委員がみんな、その結論に同意しなければならない理屈はない。

 社説は社説として発表し、一方、論説委員の意見は意見として尊重する。それが言論の自由というものではないか。私はそう思っている。だから、私は同僚論説委員が私と違う意見を唱えて社説に書こうとしても、ただの一度も反対したことはない。私の意見は言うが、最終的には書き手の意見を最大限に尊重している。私が目を通したうえで、実は私とは違う意見の社説が掲載されたことは、それこそ無数にある。

 その逆もある。私は社説が護憲を唱えているからといって、自分の意見を変えるつもりはまったくない。改憲についてはテレビで公言したし、いまもそう書いている。「社説がこうだから、私の意見もこうだ」などということになったら、どうなるのか。単なる迎合ではないか。そんなことで、言論の自由が守れるはずがないのだ。

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