第二十二回 マクドナルドの幸徳秋水

 今ごろ何を言うんだと笑われるかもしれないが、私は明治の社会主義者が大好きだ。彼らは今の日本人よりはるかに良質で、真剣に社会の不条理と格闘した。彼らの運動がどこで実を結び、どこで挫折したのか。それをきちんと検証しなければ、日本の未来は見えてこないと常々考えている。

 てなわけで、100年前の社会主義者らの面影を探しに出かけることにした。目的地はJR新宿駅西口から歩いてすぐ、青梅街道の北側、大久保と中野の中間のエリアである。昔はこの一帯を柏木と言い、そうそうたる顔ぶれの社会主義者たちが住んでいた。

 日本古書通信社の『新宿・大久保文士村界隈』(茅原健著)によると、明治の社会主義にはふたつの潮流があった。ひとつは、最終的には革命によって社会主義を実現しようとする幸徳秋水らの集団だ。彼らの多くは柏木に住んでいたので、警察は「柏木団」と呼んだ。

(これに対して、あくまでも議会政策を通じて社会主義を具現化しようという片山潜らの集団は本郷界隈に住んでいたことから「本郷団」と呼ばれた)

 では柏木団はどんな経過をたどってできたのか。まず明治31年ごろ、大阪事件(明治18年の政府転覆計画)に連座したことで知られる女傑・福田英子が柏木の住人となった。

 その隣に明治34年末、転居してきたのが堺利彦である。堺は当時、都下第一の発行部数を誇る『萬朝報』の記者で、後に日本の社会主義の礎を築く人物だ。

 そのころの柏木は乳牛の牧場やツツジ畑が広がる、のどかな田園だった。堺は、結核になった妻のため空気の良い柏木を選び、「近い処に内村鑑三君も居る。隣家に福田英子も居る。霜がはげしくて寒いことは寒いが、何だか気がせいせいして朝など非常に心地が善い」と書いている。

 それから2年後の明治36年、日露関係が悪化。「ロシア討つべし」の世論が高まった。これに対抗して堺は同僚の幸徳秋水、内村鑑三らとともに非戦の論陣を張った。だが、同年10月、『萬朝報』は世論の圧迫などで経営難に陥って主戦論に転換した。