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第2部今井雄太郎、原田雅彦が語る「メンタルが壊れても、復活できる人できない人」

週現スペシャル 2013年新春版「一流かどうかは才能なん かじゃない、心の強さなんです」
有名スポーツ選手たちの苦悩と悔恨

2013年01月29日(火) 週刊現代
週刊現代

酒を飲んでマウンドへ

 今井雄太郎(63歳)は、もともとキャッチャーをやっていた。投手に転向したのは中学。同僚のケガがキッカケだった。高校は一般入学。その後、国鉄に進んだ。

「安定した職場だから、両親が喜んでくれてね。ただ、扱いは一般職員と一緒。仕事を終えた後に練習だから疲れたよ。しかも、遠征先の宿泊施設は国鉄の地方官舎だった(笑)」

 甲子園も都市対抗も無縁だったが、たまたまスカウトの目にとまり、'70年、ドラフト2位で阪急に入団。二軍では好投するのだが、一軍では痛打された。

「あのころの阪急は投手王国。米田哲也さん、梶本靖郎さん、山田久志 さんたちがいた。二軍で好投して上げてもらってもなかなか登板機会がないから、調子を落としてしまう。いつごろからか、『今井は一軍のマウンドではアガる んだろう』と言われ始めた。確かに一軍のマウンドに立つと、打たれた過去ばかりが頭をよぎり、結果を出そうと気負ってしまった。入団から7年間で6勝。い つクビになってもおかしくなかった」

 転機が訪れたのは'78年5月。大阪球場での南海戦開始直前のことだ。

「投手コーチの梶本(隆夫)さんがビールの入った紙コップを持ってき て、飲めと言うんだ。500mlだったかな。断ったんだけど、『どうせ、この試合が最後なんだから』って。酒は強かったから、『これくらいなら、なんてこ となかろう』と思って飲んだ。そしたら違ったんだよ。マウンドに上がったら、心臓がドキンドキンしてなぜか『キャッチャー、早うサインを出さんかい!』と 強気になれた。結局、7回まで投げて勝ったんだな」

 試合後、上田利治監督が「雄太郎に酒を飲ませていたんだ」と記者に明かしたことで、このエピソードは一気に広まる。

「実はその後も2~3試合飲んだ(笑)。だけどそのうち、飲まずにマウンドに上がっても平気になった。勝ち星を重ね、自信が付いてきたんだろうね」

 そして同年8月31日、今井は史上14人目となる完全試合を達成する。ちなみに、

「酒は飲んでなかったよ」

 11年目の'81年には19勝をあげて最多勝に輝くなど、プロ通算21年で130もの勝ち星を積み上げた。

「家族のおかげ。女房がいてくれたから、野球に専念できた。強い心を つくるのは難しい。最近の人はすぐに結果を欲しがるけど、そんなに早く結果なんて出ないよ。我慢することも大事。頭で考えすぎるのも良し悪しで、完全試合 は無心だからできた。実は次の試合も7回か8回までノーヒットだったんだけど、意識した途端、やられたから。欲を出してはだめだね」

 夫人が経営する定食屋で、今井は快活に笑うのだった。

五輪で「失速」した後に

 家族とアスリートとメンタル。このキーワードで思い起こされるのは、ジャンプの原田雅彦(44歳)だろう。

 '94年のリレハンメル冬季五輪。団体のアンカーで出場した原田は、105m飛べば金メダルという場面で97・5m。原田はこの日の1回目で122m飛んでおり、金は確実と見られていただけに、マスコミは「戦犯、原田」「失速男」と厳しく責め立てた。

「いつだって全力でやっているんですが、結果的にああなってしまいましてね」

 いまも原田は失敗ジャンプだったとは認めない。言い訳もしない。

「2位より1位のほうが良いのは当然ですから、何を言われても仕方ありません。ただ、僕が同じような場面を見たら、責めません。ほかのアスリートたちもそうでしょう。周囲から何を言われようが、分かってくれる人がいればいい」

「分かってくれる人」の存在は確かに大きかった。リレハンメルの直後、原田は恵子夫人と結婚。翌年には長女の愛菜さんを授かった。

「妻は良き理解者。家族が出来たことは競技に大変プラスでした。ジャンプは孤独なスポーツ。飛ぶときは一人ですから。家族のおかげで『もっと頑張ろう』と思ったし、勇気づけられ、助けられました」

 リレハンメルから4年後、長野で原田が137mのスーパージャンプを見せ、ドラマチックに〝リベンジ金メダル〟を獲得したことは周知のとおりだ。

 現在、原田は現役時から所属する雪印メグミルクスキー部でコーチを務め、後進の指導にあたっている。

「ジャンプもゴルフもスランプの原因は同じ。どちらも考えすぎです。フォームの改善を図ろうと、少しずつ変えるうち、やりすぎてしまい、本来のフォームまで崩してしまう。悩めば悩むほど、飛べなくなる」

自由に手が動くまで4年

 その典型例が小達敏昭(44歳)だろう。早熟のゴルファーは暗く、長い洞窟に迷い込んだ。

「初勝利はプロ入り3年目の'93年。25歳のときでした。天然のB型で自己チューな性格なので何も考えずにイケイケでクラブを振っていたら、ヨネックスオープンで優勝できたんです」

 だが、勢いだけの優勝には強烈なしっぺ返しが待っていた。その年の暮れから深刻なイップスの兆候が出始めたのだ。

「売り出し中の若手として外国人招待選手と組まされたことが、不調の 始まりでした。彼らのプレーのレベルの高さに圧倒されたばかりか、つねにギャラリーの視線を集めてしまうので、『綺麗なゴルフをやらなくちゃ』と筋肉が萎 縮。動かなくなっていった。失敗が失敗を呼び、どんどん気持ちが重くなっていく。カップが果てしなく遠くにあるように感じました」

 今まで気にも留めなかったギャラリーの野次に傷つけられた。

「それ以上に気になったのが同伴競技者の目。『あいつ、アプローチがおかしいよ』と同じプロに知られることが本当に怖かった」

 不安と恐怖から逃れるため、試合後、人の目につかないところで日が暮れるまで球を打ち続けた。50球入るカゴを8箱、9箱、10箱。

「ふつうはロングショットの練習で腱鞘炎になるのですが、私はアプローチの練習で腱鞘炎になりました。腰痛にもなった。朝の練習もアプローチばかり。ロングショットなんてどうでも良かった。5年近く、そんなことをやっていました」

 彼が奈落の底に墜ちずに済んだのは、自分を突き放して、客観的に見る目までは失わなかったからかもしれない。

「クソ真面目に練習しながら、どこかで『イップスでゴルフを辞めるなんてバカバカしい』と思える自分がいましたね」

 洞窟を抜けるキッカケは'97年に訪れた。

「知人の社長が手を差しのべてくれた。米国トッププロのコーチを紹介してくれたのです。自分の知識をすべて捨てて、一から学び直しました」

 過去の蓄積をゼロにする勇気が彼を救った。その年には賞金ランキング30位以内に復活。帰国後はツアープロコーチの内藤雄士氏と契約。アプローチを2種類に絞り込み、完璧に磨き上げる作業に入った。

「4年で学生時代と同じくらい自由自在に手が動くようになり、'01 年のJCBクラシック仙台で復活Vを勝ち取る頃には、アプローチのバリエーションが8種類ほどに増えていました。実は今、小さな大会に出ています。そろそ ろ、レギュラーツアーに挑戦しようと思っているんです」

 小達を見事、甦らせた内藤コーチに聞いた。強いメンタルを作る方法とは?

「ひとつは自分のやるべきことを明確にし、集中すること。勝ちたいと いう気持ちが強すぎても、不安が強すぎても集中を乱します。考えすぎると雑念につながる。目の前の一打、一球に集中すること。あとは『これだけやったのだ から戦える』と思えるだけの練習、トレーニングを積むこと。超一流のプレイヤーと触れて圧倒される人がいますが、それは自分にない技術をマネようと背伸び をしているから。自分の武器を極めれば通用するということを忘れてはいけません。最後に、失敗はすぐ忘れ、今やるべきことを考えること。成功者は良い意味 で図々しい。忘れる能力がある」

 どんなアスリートにも試練は訪れる。特にメンタルの不調は肉体的な衰えとは異なり、トレーニングだけで鍛えられるものではない。脱出のキッカケは人それぞれだが、復活を信じ続けるアスリートにしか、キッカケが訪れないのもまた事実だろう。(文中一部敬称略)

「週刊現代」2013年1月19日号より



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