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安藤: すごく勇気づけられるお話です。さて、そろそろお時間も近づきましたので、最後にズバリお伺いします。昨年末くらいから、「ノマド」という言葉がある種のバズワードになっていますが、宮台さんはそういう現象をどうご覧になっているのでしょうか?

宮台: 美冬さんのような「ノマド」は昔からいます。昨今は「ノマド的」という言葉が流通し、カフェを転々とする「ノマド的仕事術」も裾野が広がっていますが、美冬さんが言う意味での「ノマド」の比率はそれほど変わらない。逆に言えば「非ノマド」の比率も同じです。

 臆病者の比率は、時代が移っても変わらない。むろん、境界線内だけでも〈人を幸せにする力〉は発揮できます。だから、〈境界線を超える/超えない〉と〈人を幸せにする力を持つ/持たない〉は別の話です。ただ、〈社会〉を知るには〈境界線を超える〉ことが必要です。

 でも、それは、パーティで右往左往する否定的濃密さや、パーティで自由に振る舞えるようになった当初の肯定的濃密さを手放すことに繋がります。かくして「第二形式の退屈」が訪れます。当初はまた新しいパーティを探しますが、やがて、すべてが繰り返しだと気づきます。

 それが「第三形式の退屈」です。その段階に至って、〈社会〉の外に拡がる〈世界〉が訪れます。ヨアヒム・リッターの《美的な忘我経験》です。ただし彼によれば、初期ギリシアでは〈社会〉を生きる者に〈世界〉が絶えず訪れたのが、近代社会ではすべてが〈社会〉に包摂されるので〈世界〉がめったに訪れず、〈世界〉に触れると忘我や没入が起こるようになります。

 このリッターのパターン認識が、ハイデガーの「第三形式の退屈」と密接に関連するのは見やすいところです。世界の隅々まで探検した無呼吸潜水記録保持者ジャック・マイヨールは、「退屈の第三形式」ゆえに自殺したのではないかと思います。これは「ノマド」のリスクです。

 でも、彼のライバルだったエンツォ・マイヨルカは〈世界〉から〈社会〉に帰還し、〈社会〉を奇蹟だと感じることで、善く生きた。このあたりは、拙著『〈世界〉はそもそもデタラメである』に詳述しました。マイヨルカは「ノマド」のリスクを克服した存在だと思います。

 持続可能な「ノマド」は、〈社会〉を知り尽くすことで〈世界〉に出たマイヨールでなく、〈世界〉から〈社会〉に帰還したマイヨルカだと思います。その意味で「ノマド」には〈往相ノマド〉と〈往相還相ノマド〉の二段階があり、後者が望ましいあり方なんです。

 いずれにせよ、「何も知らない者が幸せだと思うこと」と「多くのものを見てきた者が巡り巡って幸せだと思うこと」の間には大きな違いがあります。1993年に上梓した『サブカルチャー神話解体』の後書きで書いた通り、「知らぬが仏」は仏じゃない。木偶の坊と同じなんです。

 たくさんのことを経験し、何もかも相対化できるように思えた段階で、なおかつ生きることへの絶対的意欲を持つこと者だけが人を感染させる。それに関連して、2ちゃんに棲息する「処女厨」みたいな存在はクソです。ネットを見る限り、AKB48のファン層に目立ちますね。

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