ドイツ
空を覆うスモッグと中古ドイツ車の排気ガスに感じた先進国の欺瞞 ~初めてのアルバニアで過ごすクリスマス休暇

 機内から見下ろすと、下は見渡す限りの山だった。険しく、しかも怖いほどに近い。剣呑で、峻厳で、人を寄せ付けないような眺めだ。飛行機は、アルバニアの首都、ティラナに向かって、すでに高度を下げている。山頂をかすりそうだ。裸の山肌に野生のヤギがへばりついているのが見えるような気がする。

 アルバニア共和国というのはバルカン半島の南西部に位置する。私の飛び立ったミュンヘンからは、まずオーストリアに入り、凍てついた氷河を見ながら雄大なアルプスを越え、それからスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロと、まるでパズルのような小国の上空を一直線に南東方向に飛ぶと、やがてアルバニアに入り、首都のティラナに着く。その間、1時間40分、景色はほとんどずっと山だ。アルバニアの東はコソボとマケドニア、そして、南はギリシャという位置関係になる。

 アルバニアは貧しく、あまり重要でないため、たいていのドイツ人はそれがどこにあるのかも定かには知らない。もちろん、バカンスで行くところでもない。ときどき耳にするのは、アルバニア・マフィアの犯罪ぐらいだ。

 ところが我が家では、ティラナで三女がNGOとして働いているため、秋ごろ、「クリスマスには、皆でアルバニアに行こうよ」と誰かが言い出した。すると、あっという間に長女や次女のボーイフレンドまでが話に乗り、結局、それぞれがドイツのあちこちから飛び立って、クリスマスはティラナで集合ということになった。娘がここで働いていなければ、少なくとも私がこの国を訪れることは、死ぬまでなかっただろうと思う。

町中に残る100周年記念式典の余韻

 アルバニアは過酷な歴史を背負っている国だ。14世紀にオスマン帝国に侵略され、400年もの長きにわたってその支配を受け続けた結果、アルバニア国民としてのアイデンティティーが著しく損なわれた。ようやく民族自決の機運が高まり、独立にこぎつけるのが1912年。革命指導者イスマイル・ケマルが同年11月28日に、赤地に黒の双頭の鷲のデザインのアルバニア国旗を掲げ、独立を宣言した。ちょうど今から100年前のことだ。

建物を覆った大きな国旗

 そんなわけで今年11月、国中で100周年記念式典のフィーバーぶりが凄まじかったという。娘の話では、一番すごかったのは町のデコレーションで、11月の初めから町中が赤と黒で埋まり始めた。市民の情熱は計り知れず、旗あり、幟あり、垂れ幕あり、横断幕ありで、家々の窓も、あるいは大きなビルの壁も、どこもかしこも、とにかく町中が赤と黒の2色で埋まってしまったらしい。今でも町のあちこちに、多くの国旗や幟が残されている。私はなかなかきれいだと思うが、娘はかなり食傷気味で、「赤と黒の配色がひどく攻撃的に感じられる」と言っていた。

 おかしなことに、独立の日付については、野党の社会党は1912年11月28日ではなく、ソ連軍がドイツ軍を追い払ってアルバニアを解放した1944年11月29日を主張しているらしい。つまり、民主党主導の100周年記念式典プログラムは11月26日から始まり、28日に頂点に達したが、その翌29日は、社会党が68回目の独立記念日を祝い、民主党は火が消えたように沈黙を保ったというから何だかややこしい。独立記念日ぐらい統一すればいいのにと思うのは、大きなお世話だろうか。

 現在の野党の社会党というのは、かつての共産党の後継で、この党こそが、1944年から92年までのほぼ50年間、無謀な鎖国と計画経済政策の大失敗で、アルバニアをヨーロッパの最貧国に導いた張本人だ。共産主義を掲げていたのでアメリカとはもちろん断交、ユーゴスラビアとも断交、ソ連は仮想敵国、中国とは、最初は文化革命に感化されるものの、開放政策が始まると、やはり断交。こうして80年代のアルバニアは孤立し、疲弊し、まさにヨーロッパの北朝鮮のようだった。

キノコのような防空壕

 この鎖国のあいだに彼らのしたことは、キノコのような形の防空壕の建設で、その数は全国に30万とも50万とも言われている。当時、人口が300万ほどだったのだから、その数は半端ではない。ティラナ市街ではさすがにもう見かけないが、ちょっと郊外へ行くと、道端にも林の中にも、防空壕の廃墟が無数に残っていた。国民はおそらく四方八方から侵略される危険があると思い込まされていたに違いないが、どれだけの情熱で、この粗末な防空壕を作り続けたのかと想像すると、何だか薄気味悪い。

 ところが90年代、ようやく自由主義経済に移行した途端に、アルバニアは国を挙げてネズミ講にはまってしまう。普通なら、ネズミ講は新規の加入者がいなくなった時点でつぶれるが、おりしもお隣のボスニアとヘルツェゴビナで紛争が進行中だったため、集めたお金で武器を調達して、その売り上げで配当金を払い続けたので、破綻が遅れた。そして、97年、ネズミ講がつぶれると、全人口の3分の1が財産を失い、国内はたちまち内乱状態となった。

 娘のフラットの同居人の女性が、その当時のことを話してくれたが、絶望した人々が軍の武器を持ち出して盗賊と化し、夜は外出禁止令が敷かれたほど、治安が乱れたという。今回、近郊にハイキングに出かけたら、山は禿山に近かった。これは当時、人々が生き延びるため、少しでもお金になるものをと、根こそぎ伐採してしまったからだ。ネズミ講の後遺症はまだ癒えていない。

ティラナ市内の交通渋滞
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