スポーツ

総力取材 特別読み物 天才はめったに生まれない。
そして、天才であり続けることは奇跡に近い
天才スポーツ選手が語る「栄光と挫折」

2013年01月04日(金) 週刊現代
週刊現代

第1部 プロ野球篇

箕島の初Vを牽引した
甲子園の超アイドル 島本講平

 高校野球のオールドファンなら知らぬものはいない箕島高。本人は謙遜するが、古豪の初優勝('70年春)の立て役者は、エースで4番の島本講平(60歳)だった。

 プロ注目の二刀流---今でいう花巻東高・大谷翔平のような存在だった島本は、その端正なルックスでアイドル並みの人気を誇った。還暦を迎えた今も精悍なマスクは健在だ。

「プロなんて、まったく考えてませんでしたね。中学までキャッチボールしかやったことなかったし、硬式球を握ったのは高校に入ってから。亡くなった尾藤(公・元監督)さんには申し訳ないですけど、最後の夏の甲子園で負けて、『やっと苦しい練習から解放される』とバンザイしていましたから(笑)。実際、何もやっていませんでした」

 '70年のドラフトで、野村克也兼任監督が率いる南海ホークスが人気を当て込んで島本を1位指名。甲子園のアイドルはプロ1年目、一軍出場ゼロにもかかわらず、オールスターでファン投票1位に輝くという快挙を成し遂げた。

 だが、その後はしばらく二軍暮らし。チーム事情で外野手と投手のコンバートを繰り返された挙げ句、4年でトレードされるのだった。

「私ね、高校時代、尾藤監督に一度もああせえ、こうせえと指示されたことがないんです。生まれたまんまの姿で、自由にやらせてもろてました。それがプロに入ったらいきなり、フォームをいじられた。私はローボールヒッターだったんですが、スイングを変えた影響で得意の低目も打てなくなってしもうた。今も忘れません、プロ1年目の最終戦。日生球場での一軍の試合に出してもろうたとき、高校時代のフォームで2打席連続ホームランを打ったんです。しかし、褒められるどころか、待っていたのは二軍行きでした」

 島本の場合、その性格が成功の邪魔をした側面も見逃せない。

「深さがない---いうかね。もちろん自分は一生懸命やっとるんですが、無心というか、

『俺はこの世界で生きていくんや』いう考えがなかった。どこかで『人生、野球だけやない』と思っとるところがあったんです。だからバッターとして勝負するのか、ピッチャーとして名を成したいのか自分の主張がなかった。コーチに何と言われようともイチローが振り子打法を止めなかったように、自分を貫き通すこともしなかった。とことん悩むことも、己を分析することもなかった。下手な生き方、してますよね」

 いわゆる、プロ意識に目覚めたのは近鉄移籍後。オフの米武者修行でマイナーリーグ(2A)の選手に触れたのがキッカケだった。ウエイト・トレーニングを取り入れたり、気づいたことをノートにメモしたり・・・・・・。プロ入りから、すでに10年近い歳月が流れていた。

1
nextpage


Special Feature
最新号のご紹介