『永楽帝―華夷秩序の完成』著:檀上 寛
永楽帝と礼制覇権主義

 このたび講談社学術文庫からのお誘いを受け、十五年前に出版した拙著を『永楽帝―華夷秩序の完成』というタイトルで再版することになった。今なぜ永楽帝なのか。あえて理由を見つけるならば、日の出の勢いにある現代中国と彼の時代とが、対外政策をめぐってオーバーラップして見えるからかもしれない。

 永楽帝はよほど中国史に関心のある方を除けば、一般の日本人にはあまり馴染みがないらしい。世界史の教科書には必ず登場するのだから、若い人なら本来知っているはずなのに、世界史教育がなおざりにされているためか、大学生でも知らない者は多い。

 十五世紀の初頭。日本でいえば室町幕府第三代将軍足利義満の時代。北平(現在の北京)から都の南京に乗り込み、甥の建文帝から皇位を奪って即位した明朝第三代皇帝。といっても、おそらくすぐにはピンと来ないだろう。足利義満が永楽帝のもとに朝貢し、日本国王に冊封されたことで日明貿易(勘合貿易)が始まったといえば、ようやく日本史を学んだ学生の中に、思い当たる者がチラホラ出てくる程度だろうか。

 彼は義満を冊封した後、義満が亡くなるまでの四年間、毎年使者を遣わし日本との親密ぶりを演じて見せた。義満の逝去時には弔問の使節を派遣し、諡号(おくり名)まで与えているのだから、数多いる中国皇帝の中では、日本との関係をかなり重視した部類に属す。

 にもかかわらず、日本人の彼に対する認識は先述のとおりで、秦の始皇帝の足元にも及ばない。そろそろこのあたりで彼の復権を図ったとしても、誰も文句をいうまい。

 永楽帝の真骨頂は外政面で発揮された。四方に向かって明の領土を最大限に拡大したのである。北には自ら五十万の大軍を率いて五度にもわたって出撃し、敵対するモンゴルを圧(お)さえて北辺に安寧をもたらした。

 満州方面では宦官イシハに千余名の兵士とともに探検を命じ、黒竜江下流域にヌルカン都司という軍事機関を設けて、満州の地を支配下に置いた。また南方では、ベトナムの明への非礼をとがめて公称八十万の大軍を送り込み、徹底的に叩きのめして内地に組み込んでしまった。北に南に、まるで八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍である。

 
◆ 内容紹介
明朝第三代、永楽帝。甥である建文帝から皇位を簒奪し、執拗なまでに粛清と殺戮を繰り返し、歴史を書き換えて政敵が存在した事実まで消し去ろうとした破格の皇帝。その執念と権勢はとどまるところを知らず、中華の威光のもと朝貢国六〇余をかぞえる「華夷秩序」を築き上げた。それは前近代東アジアを律しつづけた中華の“世界システム”であった。