特集 家族と向き合った日々を有名人6人が語った「私の介護体験記」

2012年12月16日(日) フライデー

フライデー賢者の知恵

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 節子さんは入退院を繰り返しながらも、がんについての執筆や講演も行うなど、前向きに闘病生活を送っていた。しかし、発症から4年半たった頃、がんは脊髄や脳へ転移。次第に歩けなくなり、車椅子での生活を余儀なくされてしまう。

「自分で立てないので、僕が入浴の手伝いをすることに。最初は抱き上げるのも慣れないから、風呂場で脚を滑らせて一緒に溺れそうになったり、苦労の連続。でも、コツを摑んでからは介護が楽しくて仕方なかったんですよ。車椅子になるまでは、妻と一緒に入浴することなんてなかったですからね。それに、車椅子を押していると、彼女の脚になっているような気がして嬉しかった。食事はヘルパーにお願いしたり、家の中に手すりをつけて介護用に改造するなど、環境も整えました」

 田原は、節子さんの病気発症後は遠方への長期取材は極力控えてきたという。しかし、'04年8月、北朝鮮を取材できるチャンスが訪れた。「帰国するまで持ち堪えられるか分からない」という医師の言葉を聞き、取材を断ろうかと思い悩んだが、節子さんは「絶対に行きなさい」と背中を押してくれたのだという。残念ながら田原が帰国する直前に、節子さんは息を引き取り、看取ることはできなかった。

「亡くなった直後は喪失感で僕自身も死にたくなるほどでした。それぐらい介護を通じて愛が深まっていましたから。彼女の介護が、夫婦の濃密な時間をくれたのだと思っています」

小柳ルミ子
最期まで隠し続けた病名

 一方で、告知をしないことで家族を支えた例もある。歌手・小柳ルミ子(60)の母・愛子さん(享年86)が悪性リンパ腫のため福岡で入院したのは'01年のこと。医師から病名を聞かされ、いつ亡くなってもおかしくないと告げられた。

「生きる気力を失くしてしまうのではという不安から、病名は告げず『治る病気だ』とウソをつきました。真実を母に隠し続ける罪悪感に苛まれましたが、それでも母の闘病の苦しみに比べたらなんでもないことだと思ったんです」

 東京の病院に呼び寄せた時期もあったが、母は住み慣れた福岡での闘病を望んだため、どんなに忙しくても週1回は福岡に通う生活が5年間続いた。

「母は元来ポジティブな性格。当初は治ると信じきっていたのですが、4年を過ぎた頃から『私の病気は治らんちゃろ?』とハッキリ悟ったような口調で問いただされました。必死に否定したものの、その直後から病状が急激に悪化してしまったんです」

 告知に対する考え方は人それぞれだが、ルミ子は、告知しなくて良かったと感じているという。

「『元気になってまた娘のステージを見たいという希望があったからこそ、5年も長らえた』と医師からも言われました。母の前で涙を隠して笑顔を作ることは辛かったですが、それが私にできる最後の恩返しだったのだと今も思っています」

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