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創刊28周年企画 重大事件、事故、天災「九死に一生」生存者たちの秘話15 part2

 歴史的惨事に居合わせ、ホンのわずかの偶然で「生かされた」人たち。極限での生のドラマを、当事者やその家族が、あらためて振りかえる---。

地下鉄サリン事件 '95年3月20日
「座らない」ことが運命を分けた元電通マン

 '95年3月20日、オウム真理教の信者が都内を走る地下鉄の3つの路線の車内で、猛毒の神経ガス、サリンを散布した地下鉄サリン事件は、死者13人、負傷者約6300人を出し、日本国内だけでなく世界を震撼させた。

 その朝、当時は築地に本社があった広告代理店「電通」に勤務していた阪原淳さん(46)は、自宅近くの六本木駅から地下鉄日比谷線の電車に乗り込んだ。

「いつもどおり1両目の一番後ろのドアから乗りました。ドアから入ってすぐ左の席の床に、弁当箱のような新聞包みがあって、透明な液体が染みだしていた。その座席には、初老の男性がぐったり座っていて、ぼくも隣に座ろうとすると、『え、そこに座るの』みたいな感じの乗客の視線を感じたんです。僕は普段だったら、何かがそこにあっても気にせず座ってしまうんです。ただ、その時はなぜか座らずに立っていました。すると、段々目の焦点が合わなくなってきたんです。何か臭いも感じた。その瞬間、1週間ほど前に読んだ週刊誌の松本サリン事件の記事とその新聞包みが一気に結びついて、『わっ、これサリンと違うか!』と思ったんです。すぐに隣の車両に移りました」

 その判断が生死を分けた。座っていた初老の男性は、その車両でただ一人亡くなった。後にそれを知った阪原さんは「あの時隣に座っていたら、どうなっていたか」と振り返る。

カメラを構える阪原氏。来年1月には、学習法に関する書籍を出版する予定だ

 阪原さんは、事件後、電通を退社し、予備校時代に自殺してしまった友人と交わした「アカデミー賞を獲る」という約束を果たそうと、映画を撮り始める。'01年には、友人の米国人監督とともに撮った、松田聖子(50)の娘・神田沙也加(26)出演の映画『おはぎ』が、カンヌ映画祭で短編部門の最高賞を受賞する。

 '10年には、『サリンとおはぎ』(講談社)と題した自伝も出版。後遺症と闘いながら夢を追い続けると決め、「悩んで、悩んで、ものすごく苦しみ、毎日向精神薬を飲んで、ワイルドターキーを流し込みながら書いた」という。現在、阪原さんは、四国八十八ヵ所霊場遍路の旅を続けながら、映画を撮り続けている。

「映画監督は体力がいるんですが、僕は事件の後遺症でひどく疲れやすく、坂を登っていたりしてもすぐに息が上がる。去年、短編映画を作った時に、もう無理だなと思うこともあった。そんな時に、霊山寺の副住職に『徳島へ来い』と誘われて、今年の7月からこちらに来たんです。今は、お寺を撮影しながら、2周目のお遍路をしています。後遺症で一番苦しかったのはPTSD(心的外傷後ストレス障害)なんですが、以前は突然激昂したりすることもあった。目が疲れやすい、睡眠のパターンがおかしくて眠くて仕方がなくなるなど、いろんな症状がある。それが、このお遍路をしたことで、やっと軽減したんです」