アダム・スミスの「生きるヒント」 第23回
「あなたが"不幸"になってしまう理由」

第22回はこちらをご覧ください。

 「賢人」が富と幸福感の関係をどのように見ていたかについて、前に説明しました。賢人は「必要以上の富は無意味」「必要以上に富を手に入れても、幸福感は増さない」と見ているのでした。

 なぜ賢人はそう考えているのでしょうか? それは、人間の「慣れ」と深い関係がありました。スミスは、こういう記述を残しています。

《原 文》
われわれが無益な空想をはたらかせて思い浮かべることのできる最も輝かしい、最も得意とする境遇にあっても、われわれが自己の真の幸福を導き出そうと考える諸快楽は、ほとんど常に、われわれのたとえみすぼらしいとはいえ現実の状態においていつでも手近にあり、しかも、いつでも手に入れることのできる諸快楽と同様である。(『道徳情操論』P324)

《意 訳》
自分が「最高の生活」として憧れるような環境になったとする。そこで感じる幸せがある。でもその幸せは、今自分が経験している「つつましい生活」で感じる幸せと、ほぼ変わらない。

 わたしたちも「理想の生活」として思い描く状態があります。そのような状態になったら、どれだけ「幸せ」を感じられるかと、イメージするだけでため息が出るでしょう。

 しかし、実際はその「理想の状態」で感じられる幸福感は、現時点でみなさんが感じている幸福感と大差ない、と言っているのです。

 一般的に、「上」に行くことが幸福の条件であるように思われています。「より裕福になったら、より幸福になれるはず」「より社会的地位が高くなれば、幸福度が増すはず」という意識は多くの人が持っているでしょう。しかしそれをスミスは否定しています。

 次の文にスミスの考えが現れています。

《原 文》
すべての人間は、ひとたび自分達にとって永続的な境遇となったものに対しては、いかなる事柄であろうとすべてこれに遅かれ早かれ絶対に間違いのない確実性をもって自ら適応する。(『道徳情操論』P321)

《意 訳》
どんな状況に対しても、やがて慣れ、その状態に適応するものである。

 つまり、どんな状態であっても、それが長く続くのであれば、誰でもその状態に慣れてしまい、それが「当たり前」になるということです。だから、今の自分から見てどれだけうらやましく見える「地位」でも、いざそこまで辿り着いてしまえば、やがてその場所が「普通」になる。「普通」の場所では、「普通の感情」しか芽生えないわけで、決して「それ以上幸せ」にはなれないのです。

 たしかに、目指している経済状態や社会的地位を得たら、その瞬間は非常に幸福感を味わえます。それはスミスも認めています。ただし、その幸福感は一時的にしか続かないとしていた。つまり、「すぐになくなる」と考えていたのです。

《原 文》
一層好条件にめぐまれた人の心は、おそらく一層すみやかにその落ちつきを回復すると共に、また一層すみやかに自分自身の思想のうちに、はるかにすぐれた娯楽を見出すにちがいない。(『道徳情操論』P322)

《意 訳》
仮に、今よりも「良い状態」になっても、その人の喜びはすぐに消え、さらに「より良い状態」を思い描き、今度はさらに上に行きたいと感じるようになる。

 つまり、「理想の状態」とは、蜃気楼のようなものなのです。最初の「理想状態」を達成すると、すぐに「より良い状態」が理想になります。そして、その「より良い状態」に手が届いても、「もっと良い状態」が理想になってしまい、いつまでも辿り着けないのです。

 賢人はこれに気がついています。いくら富を得ても「理想の状態」には辿り着けない、だから幸福感は得られない。結局、最低限以上であれば、「富の量」はいくらあっても同じである。それが賢人には分かっているのです。

 賢人は、常に本質を見ています。そしてその結果、一時的な満足感や必要以上の(必要でない)富を手に入れても、長期的な幸福には結び付かないということを理解しているのです。

 スミスが「賢人の考え方」を推し進めたのは、単なる精神論ではありません。「賢人の考え方」が重要なのは、「自分がどのような経済的地位を目指すか」、さらには「どのような働き方をするか」に大きく関わっているからなのです。

 経済状況と幸福感は密接に関わっています。それだけでなく、「働き方」と幸福感も密接に関わっています。最低限の暮らしができている人が、「裕福」になったところで、長期的な幸福感が増すわけではありません。幸福感は変わらないのです。

 しかし、「裕福」になるためには、相応の努力をしなければならず、また「苦痛」も味わわなければなりません。幸福を手に入れられるという「幻想」のために、一生懸命働き、苦しい思いをしなければならないのです。 

 それを理解していないと、いつまでたっても、虚しい努力を続けるだけです。だから「賢人の考え方」をすることが大事なのです。

「幸福」を追い求める行為が、逆に人を不幸にする

 スミスの主張を裏返して読むと、「満足感」はいずれ下がってきたとしても、少なくとも短期間は味わえるということになります。だとしたら、たとえ「短期的」だったとしても、富を追求してもいいのではないか? そう思えます。

 また、スミス自身が認めているように、世間は「高貴な人」「社会的地位が高い人」を「貧しい人」よりも重視する傾向があります。だとすれば、より裕福になること、より地位が高くなることで「世間から称賛・重視されたい」という欲求を満たすことができます。

 それが本質的でなかったとしても、他の状態が同じであれば、「貧乏」より「裕福」の方が好ましいし、「地位が低い」より「高い」方が好ましいはずです。

 そうだとすると、多少は富や地位の追求も意味があることではないでしょうか? しかし、このような問いかけに対しても、スミスは明確に反対していました。なぜなら、「必要以上の富や地位を追求する過程で、かえって不幸になるから」です。

 これは「働きすぎで、不幸になる」ということではありません。

 現代のビジネスパーソンの中には、自分の年収を増やそうとして激務に耐えている人がいます。その結果、年収が増え裕福になっている人もいますが、同時に体調を崩して「不幸」になっている人もいます。「富や地位を追求する過程で、不幸になっている例」です。ですが、スミスが指摘していたのは別の理由です。

 スミスは、例えとして、貧乏な家に生まれた子供の話を出しています。

 この子供は自分の環境を忌み嫌い、裕福になろうと努力します。ただしその「努力」の結果、首尾よく裕福になったとしても、幸福になれないばかりか、逆に不幸になってしまう、とスミスは指摘していました。

 というのは、「成り上がる」ために数々の「軽薄な行為」を行い、多くの人を踏み台にしてしまうからです。そのような行為の結果、もっともほしがっていた「世間からの賛同や称賛」を失ってしまうのです。

 経済的に裕福になるかもしれませんが、世間から白い眼で見られるようになり、結果的に不幸になってしまう。「目的の地」に辿り着いた時には、周りに誰も味方がいなくなってしまう。これが、スミスが考えていたことでした。

 スミスが富を追求する行為を「軽薄」と考えていたことを理解するには、少し補足説明が必要でしょう。ここは現代とスミスの時代の違いを考える必要があります。

 スミスが生きていた時代は、まだまだ「封建制度の経済」でした。わたしたちがイメージする「資本主義経済」ではないのです。先に紹介したように、産業革命期に発明された技術が使われて大企業・大工場ができあがるのは、スミスが死んでからのことでした。

 こういった時代背景を考慮すると、「富の追求」が、現代のような「ビジネスの成功を目指す」ということと少し雰囲気が違うことに気が付きます。スミスの時代では、裕福なのは地主や領主で、これらの人々は同時に、政治的にも力を持っていました。要するに、政治家だったわけです。

 スミスが言った「富の追求」は、地主のような権力者になること、地主のように政治の世界で「活躍」することを指していたのです。

 現代社会でいうならば、「幸せになるために、とにかく政治権力を握りたい」と口にするようなものです。そのようなことを目指している人を見たら、どう感じるでしょうか? そしてその「権力」を得るために、本人がしなければいけないことをどう評価するでしょうか?

 おそらく、「目的なく権力を追い求める、下らない行為」だと考えるはずです。また、政治の世界で権力を持つためには、本質的な努力ではなく、うわべだけで人づきあいをし、駆け引きをし、既に権力を持っている人物に気に入られようとするでしょう。

 その過程で「後ろ指を指されるような行動」もしなければいけないでしょう。そして、首尾よく政治権力を握った時に、世間から軽蔑の眼で見られていることに気がつくのです。スミスが言っていたのは、こういうことなのです。

 時代背景が異なるため、現代で「富」や「成功」を求めることがすべて「後ろ指を指される行為」にはなりません。しかし、仮に自分の目的を果たすためには手段を選ばないというような考えを持っていたとしたら、その富を追求する過程で、多くの賛同者を失うことになります。富や地位を得る過程で、逆に不幸になってしまうのです。

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