現代新書
裁判員制度で激変した司法の現場
『死刑と正義』著者・森炎インタビュー

  11月、裁判員の候補者のもとに通知が届く季節です。裁判員制度がスタートして3年、市民が死刑の判断を下さなくてはならなくなりました。司法の現場はどのように変化したのか、このたび『死刑と正義』を刊行した、元裁判官の森炎さんにインタビューしました。

死刑存続か廃止かはもはや重要ではない

――死刑というと、私たちは、死刑存続か死刑廃止かという長年の議論を思い起こします。一方で、裁判員に選ばれ、死刑かどうかが問題となる事件を審理することになれば、存続か廃止かということに関係なく判断を迫られることになりますね。

 裁判員制度の導入によって、現実に市民が死刑判断を求められるようになり、死刑をめぐる状況は大きく変わりました。

森炎(もり・ほのお) 1959年東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京地裁、大阪地裁などの裁判官を経て、現在、弁護士(東京弁護士会所属)。著書多数、近著に『司法殺人』(講談社)がある。

 死刑廃止論者であっても、死刑廃止を言うだけでは済まなくなっています。また、死刑存置論者も、ただ死刑を肯定するだけでなく、現実にどのような場合に死刑にすべきかを具体的に考える必要に迫られています。もはや、死刑問題は、死刑存廃論だけでは考えられません。もっと言えば、「今」という時代の日本という国で、死刑存廃論議は第一義的な重要性を失い、どのような場合に死刑宣告すべきかという生の問題がわれわれに突きつけられています。

――森さんは東京地裁、大阪地裁で裁判官を務められた経験があるわけですが、その当時、つまり裁判員制度が導入される前の死刑基準とはどのようなものだったのでしょうか。

 1人殺しただけでは原則として死刑にならないとか、3人以上殺したら原則として死刑だとか、2人の場合は、犯行の計画性と金銭目的の有無で決める……などなどですね。そして、これらの大枠のほかに、プラス・マイナスの種々の細かい考慮要素があり、ボーダーライン上のケースはこれらの細かい諸要素のプラス・マイナスの結果によって決めていました。

 職業裁判官の死刑基準は、一般の人が抱きがちな正義や人間精神とは関係ありません。あくまで基準なのです。無色透明の中立的な基準です。語弊があるのを承知で言えば、点数計算みたいなものです。

――どうして、そのような形式的で価値中立的な基準が取られていたのでしょうか。

 それは、職業裁判官は非民主的な存在だからです。日本の職業裁判官は、アメリカの裁判官のように選挙の洗礼を受けているわけでもないし、国民に対して責任を負う立場でもありません。単に国家試験に受かったというだけです。だから、価値判断をすることは許されていません。

 たとえ正義の判断をしたくとも、できない存在だったのです。職業裁判官の価値的な判断は、暴走とみなされます。

――それが裁判員制度になって、市民が裁く立場になり、死刑判断はガラリと変わったということでしょうか。

 そうです。裁判員制度では、裁判員は市民の代表と位置づけられています。ですから、職業裁判官のような不自然な抑制をする必要はありません。市民の代表として、正義の価値判断を示すことができるようになったのです。

――今お聞きして少し疑問に思ったのは、これまで長年通用してきた死刑の基準がそう簡単になくなるものなのでしょうか。あるいは、職業裁判官サイドに抵抗はないのでしょうか。

 新しい制度のもとで前と同じ基準で決めるなら、裁判員制度の意味はありません。それでは制度の自己矛盾です。裁判員制度の開始と同時に、これまでの死刑基準は捨て去られました。前の死刑基準を白紙にすることは司法当局さえ認めています。いや、認めざるを得ないのです。

 つまり、死刑が「基準」から自由化したのです。

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