第11回 小林一三(その二)
大阪を起点とする「最も有望なる電車」。
その一大事業を賑やかに宣伝した

 小林一三は、二十歳から十五年間、三井銀行に勤務した。二十一歳の八月、日清戦争がはじまると、広島に大本営が置かれ、一三は大阪から広島への現金輸送に従事している。
そして、二十三歳の時、岩下清周が、大阪支店長として赴任した。岩下との出会いは、言葉のあらゆる意味で、一三にとっては巨きなものだった。岩下は、今は半ば忘れられた存在だが、関西の財界史を語る上で、逸する事の出来ない巨頭である。

 信州松代に生まれ、東京商法講習所に学んだ岩下は、母校で教鞭を執った後、明治十一年、三井物産に入社、アメリカ、フランスに在勤し、品川電灯会社を創立した功績で財界の信認を得て、三井銀行の支配人となった。

 岩下の融資方針は大胆きわまるものであった。鉄商として名を馳せた、津田勝五郎にたいして、たびたび巨額の当座貸し越しを見逃していた。また、これまで銀行が融資をしなかった、北浜の株式市場や堂島の米相場にも、資金を提供した。貸付係として一三は、いつもはらはらしていたと云う。

 明治三十年、岩下は横浜支店に左遷された。藤田組への金融援助を三井銀行理事、中上川彦次郎に批判されたためである。

 岩下は、三井銀行を辞め、藤田伝三郎と北浜銀行を設立した。一三は、岩下の配下と目されており、当然、北浜銀行に馳せ参じると、見られていた。実際、同僚だった堂島出張所主任の小塚正一郎は、岩下の膝下についた。

 一三は、懊悩した。

 岩下は小塚を支配人に、一三を貸付課長にするという構想をもっていたという。

 新しく大阪支店長として赴任した上柳清助からは、岩下の元に行くのか、三井に残るのか、態度を鮮明にして欲しい由要求されたが、一三は決められないでいた。

 結局、一三は貸付係から預金受付係に左遷され、三井銀行に残った。