アダム・スミスの「生きるヒント」 第20回
「社会のモラルを回復する"唯一の方法"」

第19回はこちらをご覧ください。

 経済発展を優先した結果、人々のモラルが低下し、お互いがお互いに無関心になるというコメントは頻繁に耳にしていました。たしかに「なんとなく説得力があるコメント」ではありましたが、では具体的になぜ・どのようにモラルを低下させているのかが腑に落ちませんでした。

 たしかに、金銭的な利益だけを求めて、人間として大事なことを無視していれば、「道徳がない社会」になるでしょう。

 ところが、それでは「道徳観」がなくなっていることの説明がつきません。というのは、「道徳観」が失われたと感じるのは、何もお金がからんだ場面だけではないからです。

 以前に紹介したエピソードを、ここでもう一度振り返ります。

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先日、こんな光景を目にしました。あるカフェの入口に、車イスやベビーカー用のスロープがありました。そこに堂々と大型のバイクを停めている人がいたのです。バイクの駐車場は別にありましたし、そのスロープに停めてしまうと、車イスが通れなくなることは一目瞭然でした。
わたしを含めて、多くの人が疑問を感じる光景だったと思います。現に、店員さんがそれに気が付き、すぐに別の駐車場にバイクを移してもらうようお願いしていました。もしかしたら、彼にも止むにやまれぬ事情があったのかもしれません。しかしこれだけ見ると、彼の行動は道徳観を欠いています。
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 この時、そのバイクを停めた「彼」に道徳観が欠如していたのは、「彼が経済発展を追求していたから」でしょうか? 「我先に」と競争していたから、このような行動をとったのでしょうか?

 そうではありません。彼が道徳観を疑われるような行動をとったのは、何か他のことに原因があるのです。

 スミスは、「他人と交わることで、他人が自分の行動をどう見るかを考えるようになる」、そして「自分の行動を正すように、道徳観を身につけていく」と考えていました。

 もしスミスがいうように、道徳観が社会の中で、他人と交わることで形成されるとしたら、現代社会に道徳観がなくなっているのは、他人とのつながり、他人との関わりが薄くなっていることが原因になります。道徳観は現代人が忙しいから失われるているのではなく、他人とのつながりが薄くなったから失われているのです。

 人間は、もともと他人に思いを馳せる生き物です。その感受性をもった上で「利己的に行動したとしても、社会が崩壊するわけではない」というのがスミスの考えでした。

 しかし、もし「他人に心を配る」という前提がなくなったらどうなるでしょうか? 他人がどう思うかを誰も気にしないようになったら?

 スミスの文章では、「経済発展」と「モラルの低下」の関係が論理的に説明されています。たしかに、分業を進めるということは、自分の関心事の範囲をどんどん狭めていくということでもあります。

 その結果、多くの人が他人に興味を持たなくなります。さらに他人が考えていることに無関心になれば、自分が他人からどう見られていようが気にしないということになってしまう。現代の日本で起こっていることは、まさにこういうことなのかもしれないと感じました。

"スローライフ"は本質的な解決にならない

 「人間として大事なものを忘れてはいけない」というと、「効率性から脱却すべき!」と連想され、そして対極の「スローライフ」がよくフォーカスされます。

 しかし、いくら生活が「スロー」になっても、それまでと変わらず周りを気にせず生きていたら、状況は変わりません。「スロー」に生きたからといって、人間にとって大切なものを自然と理解できるわけではないのです。

 「大事なものを忘れない」というのは、「『選択と集中』からの脱却」、つまり「いろんなことを自分でやる」、さらに「いろいろな人と関わりを持ちながら生きる」ということではないでしょうか?

 分業が進み、多くの人が「自分の担当分野」以外に興味を持たなくなるというのは、単に職場での仕事分担の話にとどまりません。この「"他人事感"の増大」は、道徳観を形成する上で、大きな障害になります。

 スミスの考えでは、人が道徳観を身につけることができるのは、「社会の中」においてでした。つまり、自分の行動が正しいかどうかは、他人の反応・他人からの評価を見て、間接的に判断するしかないのです。だとすると、自分が常に他人と交わり、関わり、自分の行動が常に他人の評価にさらされていなければいけないことになります。

 しかし、分業が進むと他人の行動に無関心になっていきます。「自分の担当範囲じゃない」という理由で、他人がどんな行動をしていても気にしなくなり、また評価もしなくなるのです。逆に考えると、自分が何をしていようが、周囲から「善い」とも「悪い」とも評価されないということになります。

 これでは各自の道徳観が形成されません。

 つまり、社会の分業化が進むにつれ、多くの人が他人に関心を持たなくなり、同時に他人も自分に興味を持たなくなります。人は世間から評価されることがなくなり、その結果として善悪の判断基準、道徳観を持てなくなります。

 もし経済発展に分業が不可欠で、分業の結果、社会とのつながりが確実に薄くなるとしたら、経済発展は道徳観を犠牲にして成り立つ、ということになってしまうのかもしれません。

 また、分業の結果、国防の意識が薄くなったという指摘は、現代の日本にもある程度当てはまる話だと感じています。

 国防に限らず、国の政治を「政治家が決めればいい」と思ってはいないでしょうか? 「オレ達/ワタシ達には関係ない」と考えてはいないでしょうか?

 スミスが言うように、あらゆる仕事が分担された結果、本来は全員で考えるべきテーマにさえも、当事者意識が希薄化してしまうという状況は十分あり得る話です。

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