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はじめて明かす山中伸弥「ありがとう、お父さん」ノーベル賞受賞の喜びのなかで、涙なしでは読めない父親との思い出

 いまから25年前、58歳で逝去。糖尿病が持病で90kgあった体重が最後には半減。それでも最後まで背中を押してくれた------

 働く背中を見て育った。職人気質に憧れた。あなたのおかげで、医学の道を歩み始めた。人生の紆余曲折、そして掴んだ最高の栄誉、いつも脳裏にはあなたの姿が浮かんだ。父はそれほど、大きかった。

小さな工場の記憶

「本当だったら、中学・高校と育つ中で、僕が(父の)ライバルになるべきだった。ところが、父がどんどん(体調を崩して)、『あと10年生きられるかなあ、伸弥』なんて言うこともあったりして、ライバルという意識はなくなってしまって・・・・・・。その後、僕は研修医になりましたが、(普通の父子とは)少し違う関係だったと思います」

 10月8日、京都大学iPS細胞研究所所長・山中伸弥教授が、ノーベル医学・生理学賞を受賞した。一昨年から「最有力候補」と言われ続けてきた山中教授。ついにやった---日本中が、快哉を叫んだに違いない。

 教授が、誠実ながらもユーモア溢れる人柄の持ち主であり、そして温厚な家庭人でもあることは、連日の報道のとおりである。受賞直後の会見では、彼は真っ先に家族への感謝の思いを口にした。中でもとりわけ印象深かったのが、この言葉ではないだろうか。

「私の義理の父(妻・知佳さんの父親)は医師でして、若い頃、私を留学させるために支えてくれました。しかし、今年早くに亡くなった。義理の父に報告できなかったことは残念ですが、25年以上前に亡くなった本当の父とともに、天国で喜んでくれていると思います」

 冒頭に紹介したのは、その山中教授が今年1月、京都産業大学で同じくノーベル賞受賞者である益川敏英博士とのシンポジウムで語った内容だ。ここで教授は、今は亡き父との思い出を明かしている。

 実は山中教授は、受賞以前にも、父から受けた影響について著書などでたびたび語っていた。

「もともと、研究者に憧れていました。父親が技術者だったので、なんか自分で工夫してやる、というのにすごく憧れていた」(『iPS細胞ができた!』集英社)

「父にもう一度会う前に、是非、iPS細胞の医学応用を実現させたいのです」(『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』講談社)

 日本を、いや世界を代表する知性の一人として、歴史に大きな足跡を刻んだ山中教授。その心の奥にはいつも、黙々と働く父親の姿があったのだ。知られざる父子の物語を紹介しよう---。

 '62年9月、大阪府東大阪市。小さな工場を営む夫婦が、男の子を授かった。50年後のノーベル賞受賞者、山中教授である。