【ノーベル賞残念対談】内田樹×平川克美
「なぜ世界中の人が村上春樹の小説にアクセスするのか」

内田 そのローカリティって、ベタな、ただの地域性じゃないんだ。村上さんは確かに日常的な素材を取り上げてるけれど、それはそこになまなかたちで存在するものじゃない。記憶の断片をつなぎ合わせて再構築された独特の日常性なんだ。

 『ダンス・ダンス・ダンス』(88年)の中の真冬の札幌のシーンはたしか夏のギリシャで書いている。ワイキキの浜辺のシーンは冬のロンドンで書いている。想像だけで書いている。写生じゃないんだ。彼の幻想の中にある都市なんだよ。『海辺のカフカ』(02年)の高松も想像の産物なんだって。村上さんは高松に行ったことがなくて、書いたあとはじめて高松に行って、自分が書いたのと同じ風景だったのでびっくりしたらしいよ。

平川 だから風通しがいいんだね。村上作品を読んでいると、自分が物語に入っていって、背景に写り込んでいるような気がする。羊の恰好をした奴(村上作品に出てくる「羊男」という登場人物)なんか本当はいるわけないんだけど、ものすごくリアリティがある。

内田 村上春樹という作家の身体を通って出てきているから、どんなありえないものでも不思議なリアリティがあるんだ。読者が現実の札幌やワイキキを知らなくても、村上春樹の身体を通ってくると、どの場所にもはっきりしたリアリティがある。

平川 だから世界中の人が村上春樹の小説にアクセスすることができるわけだ。作家の身体性に対する信頼感が根底にあるから。アメリカ人でも中国人でも、村上春樹を読んで「ああ気持ちいい」という感覚は、きっとそんなに違わないんだろうね。誤読しようがない。

内田 変な喩えになるけど、ブルース・リーと似てるね。『燃えよドラゴン』はハリウッド史上唯一の「五大陸すべてでヒットした映画」なわけ。キリスト教圏でもイスラム教圏でも仏教圏でも人々は熱狂した。言語も、宗教も、政治体制も、生活習慣もまったく違う国で、子供たちが「アチョー!」と頬を紅潮させて手足を振り回していた。ブルース・リーの身体感覚にみんなが想像的に共感したんだよ。

 村上春樹もそれと似ているんじゃないかな。インドネシアでも、ブルガリアでも、ロシアでも、中国でも読まれている。

平川 村上作品はもちろん言葉で書かれているけど、言葉のようで言葉じゃないものなのかもしれない。

内田 そうだね。

平川 あの感覚は、言葉を読んでいるというより、作家の身体感覚を追経験しているという感じに近いね。

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