第6回 渋沢栄一(その三)
心からの使命感で被災者を援助した。
誰とでも面会し、親身に助言した。

 経済史家、島田昌和によれば、渋沢栄一が関わった社会事業、公共事業は、六百あまりに上るという(『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』)。

 そこに企業経営者と別の面目があったのは確かなことだ。しかし、渋沢には、慈善家といったイメージには収まらない、心底からの義務感、使命感があった。

 関東大震災の時。

 地震の翌日、渋沢は書生たちを指図して、罹災者に対する救護策を講じていた。

 心配した次男の武之助が、社会主義者に扇動された暴民が、富裕な人々を襲っているという噂を伝え、故郷の血洗島に避難して欲しい、と頼んだという。

 渋沢は云った。

「馬鹿な事を云うな、儂のような老人は、こんな時いささかなりとも働いてこそ生きている申し訳がたつものだ。それを田舎に行けなどと卑怯千万な!」

 二日後、渋沢は、大震災善後会副会長になり、東京市内を駆けまわった。

 渋沢は、最初の妻千代がなくなった翌年、後妻に伊藤兼子を迎えている。一時期は邸内に妾を囲っており、それを廃した後も、懇意な女性の元に通っていたらしい。

 三男の正雄は、兜町の事務所から帰宅する時、父の車に陪乗するのに、その声音で希望の可否を判断したという。

「御陪乗願えましょうか! と訊いて、すぐ〝ああ〟と返事したときは真っすぐ御帰館だが、〝うん?〟という曖昧な返事のときは即座に引き下がらなければ・・・・・・自動車は本郷四丁目の角を左へ曲がる晩なんだよ」

 母、兼子は、四男の秀雄に云ったという。

「父様も論語とは旨いものをみつけなすったよ。あれが聖書だったら、てんで教えが守れないものね!」