アダム・スミスの「生きるヒント」 第17回
「本当に経済発展で一般大衆が救われるのか?」

第16回はこちらをご覧ください。

 「経済が発展しても、一部の人が金持ちになるだけでは?

 そう感じている方も多いと思います。たしかに最初は一部の人が裕福になるだけでしょう。しかし、それで終わりではありません。

 経済発展の原動力となるのは「軽薄な人」です。軽薄な人は、他人からよく思われたい一心で、より多くの富を求めます。そして、その結果より多くの富を手にした場合、軽薄な人は再び虚栄心を発揮して、自分が得た富を周りに誇示しようとします。つまり、豪遊しはじめるわけです。

 まずは、アダム・スミスの時代に照らし合わせて考えてみます。

 より多くの農産物を収穫できた地主は、裕福になります。そして「地主としてふさわしい生活をしたい」「快適で、優雅で、他人から羨まれる生活をしたい」と感じるようになります。

 その結果、地主は、「余った農産物」を売って(もしくは農産物自体を対価として)、多くの召使いを雇い、豪華な品物、衣装、贅沢な料理などを買おうとします。

 つまりここで、労働力やその他いろいろな商品への需要が増えるわけです。そして、仕事が生まれ、貧しい人々に「給料」が支払われていきます。つまり「富が分配されていく」のです。

 地主が見栄を張って、豪遊している姿を想像しても、正直いい感情は出てきません。でもその「豪遊」の結果、地主が収穫した食糧が周囲の人びとに行き渡り、より多くの人が仕事を得ることになります。

 もしこの地主に見栄を張ろうとする「虚栄心」がなければ、より多くの富を手に入れようとする気持ちも生まれなかったでしょう。そして、富が周囲に行き渡ることもなかったはずです。

 地主でなくて、資本家でも理屈は一緒です。資本家も、自分で稼いだ利益を使って、豪遊します。より多くのぜいたく品を買うことで、需要が増え、雇用が増え、経済が発展していきます。

 このようにして、一部の裕福な人から一般国民に富が広がっていく、食糧などの生活必需品が世の中に行き渡り、貧困は減少して、社会は発展していくわけです。成功した資本家が事業を拡大することで仕事が増え、失業者が減っていくのです。まさに「社会福祉」です。

 ただし、富を求める地主や資本家自身は、このような「社会福祉」を考えていたわけではありません。「貧しい人のために仕事を用意しよう。いろんな商品を買おう」と思っていたわけではないのです。あくまでも、各自が自分の利益・メリットを考えて行動した結果です。つまり、ここでも「神の見えざる手」に導かれて行動しているのです。

 本人たちが意図していたわけではありませんが「神の見えざる手」に導かれて、結果として「貧民救済」という「社会福祉」になっているだけなのです。

 状況は異なりますが、現代においても同じことが言えます。

 かつて"ヒルズ族"と揶揄されたように、若手起業家が巨万の富を手にし、派手な生活をしていたことをご存知の方も多いと思います。

 そんな若手起業家を見て、不公平感を抱いた方もいらっしゃるかもしれません。「彼らが儲かることが社会にとっていいことなのか?」と疑問を感じたかもしれません。

 ですが、考えてみてください。もし彼らが"富"に無頓着だったら、あの規模の会社を創ったでしょうか?

 そして、もし会社を興さなければ、社員はどうなっていたでしょうか? 多額の発注を受けていた取引先は、どうなっていたでしょうか?

 各若手起業家の印象はともかくとして、直接的に、または取引先に仕事を発注することで間接的に雇用を生んでいたことは間違いないのです。現代においても、やはり国民は救われていたのです。

※ライブドアは、法律に背いていたので、上記には当てはまりません。

スミスが考える「失業」

 「軽薄な人」が富を追求することで、富が国民に行きわたり、国民が救われます。そういう意味で、経済発展は必要なのです。

 そして、経済発展が国民を救うもうひとつの側面があります。それは"失業からの救済"です。

 周囲からの評価にかかわらず、自分自身の評価を重視するのが「賢人」です。ただし、いくら「周囲の目を気にしない」とはいえ、世間からどんな目で見られても構わないということではありません。

 人間は周囲の同感を得たいと切に願っている生き物です。それは軽薄な人も賢人も変わりません。ただ、賢人は世間の評価より、自分の心の声を重視しているので、世間から認められても自分で納得していなければ喜びはしません。

 ただし、いくら自分の心の声を重視するといっても、世間から何を言われても平気で落ち着いていられるわけではありません。賢人といえども、世間から不当な評価(批難)を受けた場合は、心中穏やかではいられないのです。いくら「自分の中の裁判官」が「自分は間違っていない」と言い続けたとしても、世間から非難されると、慌て、うろたえてしまうのです。

 たとえば冤罪です。身に覚えのない濡れ衣を着せられた場合、もちろん自分では何も悪いことをしていないと分かっています。そして「自分の中の裁判官」も「自分は間違っていない」と認めてくれるでしょう。

 ところが、世間は「有罪」と決めつけてきます。この時、「自分では本当のことが分かっているから」と冷静さを維持し、世間の評価を無視できるかというと、そうではないのです。いくら賢人といえども、不当な批判に対しては、心の平静が保てないのです。

 スミスは"失業"もそれと同じように考えました。

 簡単に言うと、世間は失業者に対して、頭ごなしに「ダメ」というレッテルを貼ります。失業者本人の事情を詳しく知る前に、失業は「悪」「だらしない」と決めつけてかかるのです。

 失業者本人には様々な事情があります。当時は現代ほど労働環境が整備されていませんでしたし、そもそも働き口が少なく、自分だけの努力で仕事を確保できるとも限らなかったはずです。資本家が新興勢力として出始めた時期とはいえ、封建社会の要素が色濃く残っていた時代です。貧しく生まれた人が自分の努力だけで仕事を確保し、生きていくことは難しかったでしょう。

 しかし、世間はそんな事情を考慮してくれません。問答無用に失業者を「下」に見ていたようです。怠け者が失業してしまうのは、ある意味当然です。しかし自分の努力が及ばない範囲で失業させられてしまっていたとしても、世間はその人を批難するのです。「濡れ衣」を着せるわけです。

 こうなると、いくら賢人として生きていたとしても、心の平静は得られません。失業は賢人の心も傷つけて、心を乱してしまうのです。

《原 文》
貧困のためにかれが世間の人々の視野の外に置かれるか、あるいは、かりに世間の人々がかれに注目するとしても、しかしおそらくかれらは、かれ自身の苦しんでいる悲惨・不幸に対してはほとんど同類感情を持たないことを、かれ自身感づいている。(『道徳情操論』P131)

《意 訳》
世間は貧しい人を無視・軽視する。もしくは、彼(女)らの苦しみをほとんど理解しない。そして貧しい人は世間からそういう扱いをされていることに気が付いている。

 このように失業者は精神的に追いつめられるのです。失業状態にあれば、収入がなくなり、経済的に苦しくなるのは自明です。ですがそれだけではありません。失業者は世間から白い眼で見られ、精神的苦痛を味わうのです。

 この「精神的に追い詰められる」「精神的に安静でなくなる」というのが注目すべきところなのです。

 前に紹介した通り、スミスは"心の平静"をとても重視していました。スミスは『道徳感情論』を通して、賢人としての生き方を薦めています。賢人として生きれば、"心の平静"を得ることができるからです。それだけ"心の平静"は重要なものなのです。

 ところが、いくら自分では賢人として生き、"心の平静"を得ようと努力していても、世間からその平静をかき乱されてしまっては意味がありません。

 つまり、自分が"心の平静"を保てるように行動すると同時に、世間からも「かき乱されていない状態」にしておくことが必要なのです。つまり、失業をなくさなければいけないのです。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら