第5回 渋沢栄一(その二)
パリと大蔵省での刺激的体験が、
日本初の「銀行」を設立させた

 一橋家に仕えた渋沢栄一は、慶応三(一八六七)年、好機を得た。

 ナポレオン三世の招請に応じて、徳川昭武(慶喜の弟)が、パリ万国博に赴く事になり、栄一はその代表団の一員に選ばれた。

 セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによる市街整備が完成した直後で、現在に至るパリの偉容が完成された時期である。

 万国博には、列国が蒸気機関、電信、電気など科学の最新成果を競って出品していた。

「今茲の博覧会においては、新たに発明せるものの励みなり。力を戮する時は、大業をもなすべき理を示し、貿易の自在をあらわし、各国人民の経済の道を示し、量尺貨幣等を一致せば、各国の都合となるべき筋を了解せしめ、且又各国の間に相忌相悪の念を消し相敬し相愛するの意を生ぜしめ、爰に来観するもの、この国革命の際、大乱ありしことをば打ち忘れて、即今太平の楽化盛んに風俗美なるを驚くなるべし」
(渋沢栄一『航西日記』)

 パリ万国博覧会の四年後、ナポレオン三世率いるフランス軍は、カイザー・ウィルヘルム率いるプロイセン軍に惨敗し、帝政が崩壊したばかりか、アルザス・ロレーヌを割譲させられた事を考えれば、栄一の感想はやや皮相なものとも考えられる。とはいえ、彼の祖国もまた、プロイセンを範として国力を拡充していくのだけれど。

 万国博覧会の閉会後も、栄一はパリに留まった。

 随行員のほとんどが帰国した後、昭武の勉学と栗本鋤雲駐仏公使の補佐のため、栄一はパリに残っていたが、幕府の瓦解を現地の新聞で知り、帰国する事にした。

 新政府は、徳川家の存続を認め、駿府七十万石を安堵し、徳川家達を後継者にする事を許した。

 栄一は、帰国後、昭武とともに静岡に赴いたが、太政官からの招請をうけて、東京に出向き、大蔵省の吏員として、大蔵省租税正に任じられている。

 大蔵省は、人材の坩堝だった。